戸山翻訳農場

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Secrets We Kept: Three Women of Trinidad by Krystal A. Sital                 菅野楽章

カリブ海最南端の小さな島国、トリニダード・トバゴを訪れたとき、国民的なカリプソ歌手であるカリプソ・ローズのライヴを観た。彼女は当時78歳だったが、歌も動きもキレッキレで、とにかくパワフルだった。いっぽう、ステージを下りると、朗らかなおばあちゃんという感じで、すべてを包み込むような優しさがにじみ出ていた。

 

彼女の半生を描いたドキュメンタリー映画『カリプソ・ローズ』を観ると、その強さと優しさは、カリブ海地域の男社会でひどい仕打ちを受けながら、それに屈することなく、ポジティヴに、アグレッシヴに生きてきたからこそのものなのだと感じられる。彼女はこの映画のなかで、レイプを受けた経験、音楽活動をやめるよう圧力をかけられたこと、女性だからという理由で賞を与えられなかったことなどについて明かしている。

 

ところで、カリプソ・ローズは現在ニューヨークに住んでいて、この映画にはニューヨークで撮られた場面も含まれている。トリニダード・トバゴからこのアメリカの都市に移り住んだ青年に対して、「勇気のある子だね、こんな寒いところにやってきて」と即興でメロディーをつけて語るところが印象的だ。

 

個人的にこの場面が印象に残ったのは、10年ほど前に、ニューヨークでトリニダード・トバゴ出身者の家にホームステイをしていたからでもある。モリーとマリアという母娘で、ふたりはとても仲が良く、強い絆が感じられた。あるいは、父親(夫)がいないことが、その母娘の絆に影響を与えていたのだろうか。ホームステイは1ヶ月弱だったし、当時はトリニダード・トバゴに興味があるわけでもなかったから、彼女たちとそれほど話をしたわけではない。ただ、なにかで父親(夫)の話になったとき、モリーがどことなく嫌そうな感じだったことは覚えている。

 

なにか嫌な過去があったのだろうか。勝手ながらそんなことを思ったのは、トリニダードの3世代の女性のメモワール、『Secrets We Kept: Three Women of Trinidad』を読んだからだ。著者のクリスタル・A・シタル(Krystal A. Sital)は、トリニダード生まれで、現在は米国・ニュージャージーで暮らしている。ある出来事をきっかけに、家族の過去に関心を抱いた彼女は、母と祖母から話を聞き、それをこの本にまとめた。

 

その出来事とは、祖父のシヴァが倒れたときに、祖母のレベッカが手術への同意書にサインすることを躊躇し、さらには、シヴァの死を望んでいるような態度を見せたことだ。母のアーリアも同じような感情を抱いているようだった。当時大学生の著者は、自分に優しくしてくれていた祖父の姿を思い浮かべ、彼女たちの様子に戸惑う。本当のシヴァはどんな人物なのか? レベッカやアーリアになにがあったのか?

 

娘から話を聞きたいと言われたアーリアは、30年以上頭から離れることのなかった暴行の記憶、そして自らの人生について語りはじめる。

 

その暴行があったのは、1970年代初めで、7人きょうだいの4人目のアーリアは小学生だった。敬虔なヒンドゥー教徒のシヴァ(トリニダード・トバゴは、インド系とアフリカ系がそれぞれ人口の40パーセント近くを占めている)は田舎で大きな農場を営んでいて、子どもたちは父に命じられて朝早くに農場の仕事(鶏の屠殺、乳搾りなど)をし、それから学校に行くという生活を送っていた。ある日アーリアは、ひとり学校をサボり、午前中に家に戻った。すると、キッチンから父の怒りに満ちた声が聞こえてきた。身をひそめて様子を見ていると、シヴァはレベッカの首をつかみ、キッチンに叩きつけた。そしてその後も殴る蹴るの暴行をつづけ、レベッカは血まみれになった。

 

シヴァは、レベッカの仕事のミスを責めたり、あるいはたんなる八つ当たりとして、彼女に暴力を振るうことがあった。

 

そんな環境を抜け出したいアーリアは、空想にすがる。

 

ときおり、学校にいるときに、頭のなかがそんな考えでいっぱいになり、農場の生活からトリニダードの都会へ連れ出された。そこでは、木とセメントを何年もかけてつなぎ合わせたのではない家、水道が引かれてトイレが中にある家を所有している。(中略)自分の家でハンモックにくるまれ、なにも恐れることなくリラックスするのはどんな感じだろう? 逃げ出した先には、自分を閉じ込めるものはなく、肌に染み込んだカカオの苦い香りはもはやこすり落とされているし、寂しいサングレ・グランデの村とは違って、その町ではご近所さんとおしゃべりができ、そのおしゃべりをしているときに次の暴行について絶えず心配することもないのだ。

 

やがてアーリアは、父のところから逃げ出す道は教育しかないと考えるようになった。しかし、試験でたびたびうまくいかず、農業を学ぶ以外の選択肢がなくなった彼女は、学業をつづけることを断念する。また、きょうだいのなかにはアメリカへ移住するものもいたが、女性が国を出て暮らすのは容易ではなかったため、アーリアは家に残り、首都のポート・オブ・スペインで働きはじめる。

 

そこで出会ったのが警察官のダルメンドラで、熱烈なアプローチを受けるうち、アーリアは彼に好意を抱くようになった。シヴァも、インド系で家柄がよく信心深い彼のことを気に入り、アーリアはダルメンドラのプロポーズを承諾する。

 

しかし、彼女の思い描いていた生活は訪れなかった。ダルメンドラはしだいに横柄になり、暴力を振るうこともあった。また、彼は妻が働くのは体面が悪いと考え、アーリアは家庭に縛られた。そして結婚から10年ほどが経ったとき、ダルメンドラの不倫が発覚する。1999年、アーリアは娘2人とともにアメリカへ移住する。

 

アーリアは、母・レベッカと同じ道は歩みたくないと思いながら、似たような境遇に苦しんでいるようだった。しかし、アーリアが知らないレベッカの人生、つまり娘が生まれる前の彼女の人生はどのようなものだったのだろうか?

 

「あんときはね、ありゃ1954年のことで……」と、レベッカは語りはじめる。

 

レベッカの父親はインド人ムスリム、母親はベネズエラ人だったが、そのような異人種間の結婚は好ましく思われていなかった。彼らは社会から疎外され、山奥の村で暮らすことになった。

 

試験に落ちつづけ、16才のときに学業を断念したレベッカは、父親に命じられるままにプランテーションで働きはじめた。母親とともに過酷な労働に精を出したが、母親のような人生は送りたくない、ここで一生を過ごすのは嫌だ、と思っていた。彼女がほしいものは、「家、土地、自動車」だった。

 

そんなあるとき、彼女はシヴァと出会い、彼の車の美しさに心を奪われた。その数日後、彼の実家(2階建ての邸宅)に強引に連れていかれた彼女は、ここに住みたい、ここを自分の場所と呼びたい、と思う。そしてそのままそこで暮らしはじめるが、シヴァは最初から暴力的だった。彼の母親から習った料理をレベッカがシヴァに出したとき、彼は味に文句を言い、彼女を殴った。(実際には、シヴァの姉妹がわざと塩を多く入れたためであり、彼女たちは混血のレベッカのことをよく思っていなかったのだ。)レベッカとシヴァは内縁の夫婦となり、レベッカは毎年のように出産しながら(死産も4度)、農場での厳しい労働を強いられることになった。そしてシヴァの暴力もエスカレートしていった。

 

このようなつらい過去を、アーリアとレベッカは「秘密」にしていた。しかし、いつか話したい、とも思っていた。「わたしたちがしなければならないのは、訊くことだ。そして、聴くことだ」と、シタルは書いている。

 

母と祖母から話を聴いたシタルは、彼女たち自身の(トリニダード訛りの)言葉を織り交ぜながら、その話を再構築し、臨場感たっぷりにわたしたち読者に伝えてくれる。エピソードの連続で展開が速く、構成も練られた文章は、小説のように読め、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの作品を思わせるところもある。また、ひとつひとつの場面の描写も鮮やかで、たとえば、アーリアが初めて首都に行く場面では、街のにぎやかさや彼女の興奮が目の前に浮かび上がってきて、遠い異国の話が身近に感じられる。

 

話が進むにつれ、著者、母、祖母の3世代の物語は、ひとつに溶け合っていく。そしてさらには、家族のメモワールをこえ、トリニダード全体にはびこる暴力への問題提起になっていく。「彼女たち[著者の母と祖母]はトリニダードの歴史の奥深くに手を突っ込み、女性たちが心の内に抱えている話、祖父のような男性たちが必死に押しつぶそうとしてきた話を引っぱり出す」とシタルは書いている。

 

本書には、家庭内暴力にとどまらず、さまざまなかたちの暴力が描かれている。教師による生徒への鞭打ち、田舎生まれの同級生に対するいじめ、ホームレスの人への理由のない暴行、障がいのある人に対する虐待、人種間の対立、理不尽な家父長制。そしてそれらすべてが絡み合い、暴力の連鎖となって、代々受け継がれている。

 

シタルには、そのような連鎖をとめたいという思いがある。その意味で、本書のなかで印象的な人物は、シヴァの非嫡出子のアヴィナッシュだ。アーリアの1歳年下の彼は、アーリアのきょうだいたちから暴力を振るわれていたが、アーリアだけは彼に優しく接し、彼も彼女のことを信頼していた。本書のエピローグで、12年ぶりにトリニダードを訪れたシタルは、アヴィナッシュと会う。彼は見た目も声も口調もシヴァにそっくりで、まるで生まれ変わりのようだった。そのため、彼が海辺で生き物をつかまえたとき、シタルはぎょっとする。彼がその生き物を殺すと思ったからだ。しかし彼は、シヴァとは違い、暴力とは無縁の人だった。

 

アヴィナッシュおじさんは、一瞬、その海のゴキブリを持った手を握りしめ、わたしは凍りつく。彼は手を開き、また握る。わたしの胃がねじれる。開く。握る。わたしは縮み上がる。彼はわたしの目の前でこの小さなものを殺すのだ、その手の真ん中で、押しつぶして死なせるのだ、とわたしは思う。理由もなく。

 だが、彼は貝が真珠を見せるかのように手を開き、無力な生き物はちょこちょこと動きまわったあと、彼の手のひらの砂のベッドから跳んでいく。そして優雅に弧を描いて砂浜に落っこちると、飛び跳ねながら海に向かい、海底の奥深くに潜り込んでいく。

 祖父だったら放すことはなかっただろう。

 

本書には、アーリアとレベッカがそれぞれ夫に抵抗する場面も描かれているが、彼女たちは暴力に暴力で対抗した。それに対してシタルは、この本を書くことで、言葉による抵抗を行っている。そうすることで、暴力の連鎖をまずひとつ自ら断ち切れるし、広く社会に訴えかけることができる。

 

カリプソ・ローズは、「ある意味ではカリプソに救われた。口では言えないことを歌詞にできたから」と言い、歌をとおして社会に問題提起を行ってきた。彼女は、人生のなかでさまざまな暴力に遭いながらも、「みんなを幸せにすることに自分を捧げたい」と言っている。その思いは、シタルのこの本にも感じられる。