月曜 14:45~18:00
木曜 16:30~18:00
金曜 18:00〜21:30?
本作は、こんな印象的な書き出しから始まる。
愛するほど苦しみが募り、愛さぬほど苦しまずにすむ、どちらを選ぶか。これこそがただひとつの真の問題だと、今になって私は思う。
正しく、こう指摘する人もいるだろう――それは真の問題ではないと。なぜなら、答えを選べるものではないからだ。選択肢があれば問題もある。だが、選択肢がなければ問題もない。どれほど愛するかを、誰がコントロールできるだろうか。もしコントロールできるなら、それは愛ではない。なら何と呼ぶかは知らないが、愛ではない。
ほとんどの人は、語るべき物語をひとつだけ持っている。人生唯一の出来事、という意味ではない。人生には無数の出来事があって、それらは無数の物語になる。だが、大切なのはただひとつ、最後に語る価値があるのはただひとつだけだ。これは、私のただひとつの物語だ。
こう語るのは、70代となった主人公のポール。本作は三部構成となっており、第一部はポールの一人称で綴られ、彼の「ただひとつの物語」の始まりが回想される。
イングランドのサセックス大学に通う19歳のポールは、地元のテニスクラブでダブルスの試合に出ることになり、くじ引きで48歳のスーザンとペアになる。くじ引きを意味する“lot”には「運命」という意味もあるように、二人の出会いは運命だったのだとポールは感じる。スーザンは結婚25年目となる既婚者で、ポールより年上の娘が2人いるが、ポールは彼女に強く惹かれ、やがて二人は肉体関係を持つようになる。
ポールが「年は離れているけれど、精神的には同じ年頃な気がした」と語るように、スーザンは外見こそ四十代相応と書かれているが、とても若々しい。よく笑い、皮肉や冗談を言い、色々な人に面白いあだ名をつける。ポールにも「あなたって変わり者(ケース)ね。これからはケイシーって呼ばなきゃ」と言い、彼を「ケイシー・ポール」と呼ぶ。こうした無邪気な言動に、ポールは「無垢」な印象を抱く。とはいえ、スーザンは決して子どもっぽいというわけではない。大人としてポールの将来についてアドバイスをしたり、自分たちの関係を冷静な目で見ていたりもする。
対するポールは、その言動のいたるところに若者らしい浅はかさを見せる。「まだ19歳だから」と子ども扱いする両親に強く反発する一方で、都合の悪いときだけ「まだ19歳だから」と言い訳をする。スーザンとの経験の差を感じるたびに追いつきたいと焦るが、彼女の発言の真意を深く考えようとはしない。
ある日の午後、花柄のワンピースを着たスーザンが、インド更紗のソファにどさりと座ったときのことを覚えている。
「見て、ケイシー・ポール! わたし消えてる! 姿を消してるの! ここには誰もいない!」
私は見る。それは半分本当だ。ストッキングを履いた足、それに頭と首ははっきり見えるけれど、まんなかの部分はすっかりソファに溶け込んでいる。
「どう思う、ケイシー・ポール? もしわたしたちが消えて、誰にも見えなくなったら」
彼女がどれくらい本気なのか、ただふざけているだけなのか、私にはわからない。だから、どう答えればいいかわからない。思い返すと、私は実に想像力のない若者だった。
ポールは愛こそ人生のすべてであり、ほかのことはどうでもいいと言ってはばからない。そして彼が21歳のとき、二人は家を出て同棲生活を始める。
第二部では、二人で暮らし始めた後のことが語られる。スーザンはアルコール依存症の夫に暴力を振るわれていたため、酒を憎んでいたはずだった。だが、ポールが気づいたときには、彼女は酒に溺れていた。ポールはなかなかその現実を直視できず、彼女の飲酒を強く止めることもできない。そしてアルコール依存が進むにつれて、スーザンは精神や記憶に変調を来すようになり、やがて精神病院に入院することになる。
この第二部で注目すべき点は、徐々に一人称から二人称へ変化していくことだ。スーザンがおかしくなっていくにつれ、主語がIからyouへと変わっていき、後半はyouのみになる。
ひとつの出来事を思い出すと、お前の頭のなかには、また別のイメージが浮かんでくる。お前たちは村にいて、ふたりは愛にあふれ、静かに、けれど純然に、互いのことだけを考えている。花柄のワンピースを着ている彼女は、お前が見ていることを知っていて――お前はいつも彼女を見ていたから――インド更紗のソファへ行き、どさりと座って言う、
「見て、ケイシー・ポール、わたし消えてる! 姿を消してるの!」
そして一瞬、お前には、彼女の顔とストッキングに包まれた足しか見えなくなる。
今、彼女はまた姿を消そうとしている。体は変わらずそこにあるけれど、その内にあるものは――精神、記憶、心は――ひっそりと消えていこうとしている。
第三部では、晩年を迎えたポールの様子と彼の回想が、主に三人称で綴られている。ポールは独りで暮らし、愛の意味について考え、スーザンのことを思い出す。
彼の人生最後の務めは、彼女を正確に思い出すことだ。正確に、一日一日、一年一年、初めから半ばそして終わりまで――という意味ではない。終わりはひどかったし、半ばはほとんど初めと重なっている。そういう意味ではなくて、彼の最後の務めは、ふたりのために、初めて会ったころの彼女を思い出し心に留めることだ。彼が無垢だと、無垢な魂だと思っていたころの彼女を思い出すこと。その無垢さが汚れてしまう前。そう、いわば、酒という野蛮な落書きで塗りつぶされてしまう前。そうしてその顔が見えなくなってしまう前、彼女がどんなふうだったか思い出すことだ。彼女を失う前、彼女を見失う前、彼女がインド更紗のソファに消えてしまう前――「見て、ケイシー・ポール! わたし消えてる!」見失ってしまった、初めての――ただひとりの――彼が愛した人を。
ポールはスーザンと初めて会ったとき、「こんな人は初めてだ」と感じる。そして彼女が「ほかにはない特別な人」「無垢な魂を持った人」だという幻想にずっと固執し続け、スーザンが普通の人と同じだと感じるような出来事があっても、その事実を認めたがらない。そして、変わってしまったスーザンと向き合うことを恐れる。
ポールは、スーザンの服装や身体的特徴などは執拗なほど丁寧に描写するが、彼女の気持ちや何を考えていたのかなど、その内面については一切言及しない。ポールは「いつも彼女を見ていた」と言いながらも、その内面はろくに見ようとしなかったのではないか。スーザンをアルコール依存症に追い込んだ一因は、彼女に自分の幻想を押しつけ、現実の彼女を理解しようとしなかったポールにあるだろう。ポールはそれに気づきながらも、認めたくないからこそ、おかしくなっていく彼女を「私」の視点で描写できず、主語を「お前」や「彼」に変えて距離を取ろうとしたのではないだろうか。ポールが「私」を主語に生き生きと語るのは、スーザンがおかしくなってしまう前、彼女と共に過ごした時間だけだ。彼女が理想像と乖離していくにつれて増えていく「お前」という二人称の語りは、彼女を救えなかった自分を責めているようにも感じられる。そして彼女を完全に失ったあと、独りきりで回想にふける「彼」の描写は、それまでと比べてずっと淡々としている。
こうした人称の使い分けがとくに際立っているのは、ラスト間近、入院しているスーザンと面会したときのことを振り返る場面だ。それまで落ち着きのある三人称の文が続いていただけに、感情的な二人称への変化は強烈で、読者の心を揺さぶる。
彼女の前に二十分いるとお前が耐えられなくなるのは、憔悴と絶望のあまり外へ駆け出し泣き叫びたくなるのは、これが理由だ。彼女にはお前の名前がわからない。お前に質問をすることもなければ、お前の質問に答えることもない。それなのに、意識のどこかでお前の存在に気づき反応する。彼女は、クソッ、お前が誰なのかも、何をしてるのかも、チクショウ、お前の名前だってわかりゃしないのに、そのくせお前を認識し、お前のモラルを責め、お前がいないことに気づく。だからお前は部屋を飛び出して泣き叫びたくてたまらなくなるし、きっと同じような意識のどこかで、脳みその奥のほうで、まだ彼女を愛してるんだと思い知らされる。そして自覚してるのに受け入れたくないから、よけいに泣き喚きたくなるんだ。
ポールはスーザンと誠実に向き合ってきたとは言えない。だが、彼女を失った痛みを生涯抱え続けた彼の嘆きからは、確かな「愛」が痛切に伝わってくる。
バーンズは『人生の段階』で「痛みは、忘れていないことの証拠だ。痛みは記憶を味わい深くし、愛を証明する」と述べた。彼は本作を通じて、この事実を見事に描き切っている。