月曜 14:45~18:00
木曜 16:30~18:00
金曜 18:00〜21:30?
1977年5月3日、オハイオ州に住む裕福な家族の、16歳の娘が遺体で見つかる。その死をきっかけにして、平穏に暮らしているように見えたこの家族の根深い闇が露わになる。彼女の死の真相を追う兄妹と、その秘密を握る怪しいご近所さん。いかにも官僚的に事を処理しようとする警察。娘の死が決定的な亀裂となって、不和に至る両親。
なにか既視感のある光景。そこに広がっているのは、もう何度も繰り返し描かれ、使い尽くされたようにも思える、典型的なアメリカ郊外の姿。『ロリータ』のように湖の近くにある長閑な町で、『デスパレートな妻たち』のように死者も含めたポリフォニックな語りを使い、『アメリカン・ビューティー』のようにドロドロとしたファミリー・アフェアが展開される本作『Everything I Never Told You』が、Amazon.comによる2014年のブック・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、これまでに15の言語に翻訳され、『ダラス・バイヤーズ・クラブ』のプロデューサーとして知られるロビー・ブレナーによって映画化が進められている。凡庸にも捉えられかねないこの作品が、これだけの成功を収めた理由は何か? それは、見慣れた風景の中にある一つだけ例外的な要素――この家族が中国系アメリカ人であることに起因する。
著者のセレステ・イングはペンシルヴァニア州ピッツバーグ出身の中国系二世。両親が60年代後半に香港からアメリカへと移り、物理学者の父親と化学者の母親の間に生まれた。ハーバード大学を卒業した後、ミシガン大学の創作科でMFA(Master of Fine Arts)を取得。2012年に短編「Girls, At Play」でプッシュカート賞を受賞し、2014年に本作でデビューを飾るや、瞬く間に現代アメリカ文学の新星として脚光を浴びた。2017年9月には長編第二作『Little Fires Everywhere』の刊行を予定している。
物語の中心にいるリー家。父親ジェームズは中国系二世の大学教授で、アメリカ史を教えている。母親マリリンはアメリカ南部の出身で、かつては化学者を目指していたブロンドヘアーの白人。長男のネイスと次女のハンナは父親譲りのアジア人顔で、長女リディアだけが母親似の青い眼をしている。
欧米人寄りのその容姿ゆえに、両親のお気に入りだったリディア。そんな彼女の遺体が近所の湖で発見され、家族はゆっくりと崩れ始める。ジェームズは家族と離れたところに心の安寧を求めて、助手を務める女学生と関係を持つようになる。マリリンは喪失の痛手から回復することができず、何度もリディアの部屋をうろうろする。そのうちに、彼女の部屋でコンドームの箱を見つけ、これは自殺なんかじゃなく殺人事件ではないかと疑い始める。兄のネイスは「泳げないリディアが一人で湖に行くはずがない」と考え、生前によくリディアと一緒にいた、近所に住むジャックに迫る。家族皆が混乱する様子を近くで見ながら、まだ幼い末っ子のハンナだけは、リディアが死ぬ前から家族が崩壊していく気配を感じ取っていた。
本作は一章ごとに時間軸が入れ替わる。両親の馴れ初めに始まる、家族が崩壊へと至る過程(過去)、そして、リディアの死後にばらばらになった家族の様子(現在、1977年)が交互に語られる。全て三人称の語りで、過去パートではリディアにも声が与えられており、最後には自身の死の真相を明かす。頻繁に視点が移動し、自由間接話法、内的独白等が多用され、登場人物たちのあらゆる声が、物語を多面的に映し出す。
様々な要因が積み重なって、この家族は壊れていく。そのなかでもとりわけ決定的でスリリングなのが、父親ジェームズと母親マリリンのリディアをめぐる対立。ジェームズは自身の容姿や出自によって、差別を受けながら生きてきた。「ちっこくて、せいぜい5フィート9インチしかない、しかもアメリカ人ですらないこの男が、俺たちにカウボーイのことを教えるだって?」と、学生にも馬鹿にされてきた彼は、自分の娘には「みんなと同じ」になってほしいと考えていた。エヴリワン、エヴリワン、エヴリワン。その圧力はリディアを窒息させる。
父親はみんながすることをいつも気にしていた。ダンスに行くんだってね。嬉しいよ、ハニー。――ダンスには、みんな行くものだからね。その髪型すごく良いよ、リディー。――最近の娘たちは、みんな長い髪をしているからね。彼女が笑ったときはいつもこう。もっと笑ったほうがいいよ――笑っている女の子は、みんなに好かれるから。
周囲に溶け込むことだけを勧奨する父親に対して、母親のマリリンは全く違う考えを持っていた。保守的な南部で育った彼女は、「女性は良き妻として男性を支えなくてはならない」という価値観を押し付けられて生きてきた。もともと学業が優秀だった彼女は、”女のくせに”化学者を目指し、マサチューセッツの大学に進学して、男だらけの研究室で授業を受けた。ジェームズが”different”である苦しみを吐露する一方で、彼女は「みんなと同じ」ふるまいを求める圧力をはね返し、主体的に”different”であろうとしてきた。そして自分の娘にも、”different”であることを求める。引用するのは、リディアの死後にマリリンとジェームズが対立するシーン。マリリンは言う。
みんなと同じことをしなさい。あなたはリディアにそれしか言わなかった。友達を作りなさい。うまく馴染みなさい。だけど私は、みんなと同じになんてなってほしくなかった。(……)リディアには、特別な存在になってほしかった。
見た目も考えも正反対の両親の板挟みにあったリディアは、どちらの期待にもうまく応えられないまま、徐々に追い詰められていく。母親似とはいえやはりアジア系の彼女は、学校で差別され一人も友達がいない。自分の苦しみを共有できた兄のネイスは、ハーバード大学進学で家を離れることになる。多様な人種が共存するボストンの街に拠点を移す彼とは精神的にも距離が開き、周囲から悪評を受けているジャックと彼女が親交を持つことで、その溝はより深まる。そしてリディアは、少しずつ死へと近づいていく。
なにか最後に劇的な展開が待っているのでは、と期待しながら読み進めると、きっと肩すかしを食らう。現在(1977年)と過去を行き来しながら、登場人物たちの「言わなかったこと」が次々と吐露されていくが、リディアの死の真相に関しては意外なくらい呆気ない。しかし、だからといって失望するわけではない。本作はミステリーの枠組みを用いたファミリー・アフェアの物語であり、リディアの死の真相よりも、そこに至った経緯の中に著者の悲壮な思いが詰まっている。
アメリカで生まれ、アメリカ人として育ちながら、アメリカ人と見なされない苦痛がひしひしと伝わってきて、それに加え、女性に押しつけられる固定観念の苦しみ、中心と周縁、親と子、といったトピックが物語の中にバランスよくおさまり、70年代のアメリカ郊外の姿を見事に表している。近年際立っているジュンパ・ラヒリ,イーユン・リーら「アジア系」の系譜、あるいはもっと遡ってトニ・モリスン、ラルフ・エリソンを思わせるような、アメリカ内部の”different”から”everyone”へ向けた新たな告発の書となっている。