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リトアニア出身の映画作家/詩人/批評家でもあるジョナス・メカス(1922年〜)の新刊。1960年代の、主にニューヨークのアート・シーンについて書かれた、インタビューや書簡、日記の抜粋を含む37の文章に、当時の映像素材から抜き出された画像や写真を挿入したスクラップブックである。執筆期間は1954年から2010年まで、実に約半世紀に渡っている。
『メカスの映画日記』をはじめとして、映画について書いた文章も多いメカスだが、『SCRAPBOOK OF THE SIXTIES』では、ダンスや演劇や音楽や文学といった、映画以外のさまざまな芸術に言及している。この本のクラウドファンドを募る映像のなかでメカスは、様々なジャンルのアーティストが一緒に活動していた当時、ジャンルを越えて書くのはあたりまえのことだった、と言っている。
こうした姿勢を本のなかに探せば、目に入るのは「ダンスについての39の覚え書き」という断章集の11番目の断章だ。
ダンス、音楽、詩、演劇、彫刻、建築、歌、映画は、どれも異なる、互いに切り離された芸術のカテゴリーである。それぞれが、わたしたちの魂の別の側面をあらわしている。ダンスは映画と関係がないし、映画はダンスと関係がない。だがそれも、芸術の形式としては、ということだ。それらはみな同じ魂からやってくるのである。
『SCRAPBOOK OF THE SIXTIES』における横断を可能にする視点は、「詩人」の視点だとメカスは言う。ダンサーのエリック・ホーキンスらとの対話の冒頭で、メカスはダンサーたちに、このように切り出す。
わたしはダンス評論家ではありません。ですがわたしは詩人で、詩人というものはたいていそうなように、わたしもほかの芸術に関心をもち続けてきました、それらがとても豊かなインスピレーションの源であるのは、人生そのものと同じです。ときには、もしかしたら、人生以上のものかもしれない。
ジョナス・メカスは、22歳で反ナチ活動が明るみに出るのをおそれてリトアニアを出国する前から、詩人として知られていた。ヨーロッパの強制収容所と難民キャンプを経てニューヨークに着いて以降も、リトアニア語で詩を書きつづけている。この詩人としての好奇心をたずさえ、彼が半世紀にわたって出会ってきた人は多岐に渡り、結果としてこれは、気になる人物や作品がいれば索引をひいて調べられる、辞典のような本になっている。
登場するページの多い人物を適当に索引から拾い上げてみると、ギデオン・バッハマン、ジュリアン・ベック、スタン・ブラッケージ、ジョン・ケージ、ウィレム・デ・クーニング、マヤ・デレン、ルチア・ドルゴツェウスキ、マルセル・デュシャン、ボブ・ディラン、リチャード・フォアマン、アレン・ギンズバーグ、エリック・ホーキンス、ジェローム・ヒル、ケン・ケルマン、ペーター・クーベルカ、ジョン・レノン、グレゴリー・マーカプロス、バーバラ・ルービン、アンディ・ウォーホル……まだまだいる。
本書の裏表紙には、「フィルム・カルチャー」誌(当時アドルファスとジョナスのメカス兄弟らが中心になって発刊していた映画雑誌)を抱えてチェルシー・ホテルの前に佇む若き著者の写真があしらわれている。チャールズ・ブコウスキー、パティ・スミス、サム・シェパードといった様々な芸術家の集いの場所だったことで知られるチェルシー・ホテルという背景は、それぞれ異なるタイプの芸術が創り出すひとつの場所を見つめるメカスという、本書のあり方を簡潔に伝えているようにも見える。
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Fabian BremerとPascal Storzというふたりのグラフィック・デザイナーによる本書のデザインが秀逸なのは、裏表紙の写真だけではない。ページの見開きは一センチにみたないほどの黒い枠に囲まれており、まるでサイズのあまった部分があるコピーを重ねて束ねたようだ。所々に写真や、フィルムから切り出された画像が挿入されているが、それはしばしばこの黒い枠を隠す程度にはみ出している。各テキストのタイトルは、著者による手書き文字をスキャンしていて、この字も時には活字の上にかぶさって字を潰したりしている。こんなふうに、あたかも草稿を書き手から直接手渡されたような、親密な感触を読者に抱かせながらも、同時に、きわめて端正にデザインされている印象もあたえているのがすばらしい。
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本書をめくる著者(Jonas Mekasのオフィシャルサイトより)。
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こんな本を作るのは、ライプツィヒの出版社Spector Booksである。本書がメカスの新作というだけでなく、この出版チームとの協同の作品であるという点は、いくら強調してもしすぎることがない。オフィシャルサイトに記載されている出版社の説明はこうだ。
スペクター(・ブックス)の出版活動は、アートと理論とデザインの交差する場所に真正面から取り組んでいます。ドイツのライプツィヒを起点に、わたしたちが探求する可能性は、本を制作するプロセスに含まれるすべての当事者たち、すなわちアーティスト、作家、ブックデザイナー、リトグラファー、印刷工、製本工といったひとたちのあいだでの、活発な交流によってもたらされます。メディアとしての書物はひとつの舞台、生産的な交流のための出会いの場になるのです。今日、メディアへの革新的なアプローチを見出すのに求められるのは、内容、デザイン、そして本の物質性(materiality)*1のあいだで交わされる、よく考えられた相互作用なのです。
『SCRAPBOOK OF THE SIXTIES』の、デザインをふくめたあらゆる要素が、なによりも人や芸術作品との遭遇の場所であることにこだわっている。これは、人々の行き交う交差点に立つジョナス・メカスが、インタビューや逸話を通じてアーティストたちの声をふんだんに盛り込んだ原稿をもとに、書物を「舞台」と考える版元と一緒に作った本なのだ。
ところで、昨年(2015年)の秋ごろ、映像作家のケン・ジェイコブスが自作の映写機をたずさえて来日し、映像・音響作品「ナーバス・マジック・ランタン」を上映した。それを観たあとで、わたしは本書のケン・ジェイコブスについての文章を探した。そこに書かれているのは、ジェイコブスとメカスのあいだでの、私的な手紙である。「きみ(=ケン・ジェイコブス)の作品を見ることの喜びは、いま、何日も、何週間も、そう、二ヶ月経ったいまでも! 続いていて、わたしの視覚的な、肉体的な、動的な思い出の深みにあるんだ――」。
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「ナーバス・マジック・ランタン」(2007年のパフォーマンス)
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メカスが言っているのは「ナーバス・マジック・ランタン」についてではないけれど、ケン・ジェイコブスの作品にはじめて触れたわたしには、感じるところがあった。あたらしくなにかを見聞きするたびに、こんなふうに見逃していたテキストがスクラップされているのが見つかると思うと、やはり、この出会いに満ちたスクラップブックを「読破」するのは至難の業だ。そうこうするうちにSpector Booksは今年、メカスとさまざまなフィルムメーカーとの対談をあつめた本の出版を予定している。こちらも、外から見ても内側を覗いても発見に満ちた本になるだろう。
【注】
*1メカスとはまた異なる持ち味の日記作家、ピーター・ビアード(ハンドライティングとコラージュを多用したビアードの日記はとにかく圧巻なので、未見の方は、Peter Beard diaries等の検索ワードで画像を眺めてみてもいいかもしれない)の家が火事になったときのことについて書かれた記事「ピーター・ビアードの失われた本についてのノート」は、「本の物質性」を不思議な仕方で考えさせる。あるとき、電話で「きみについて書いた原稿をなくしてしまった」と言うメカスに対して、ビアードは「いつもの快活な調子で」言うのだ。「いいねえ!」それから、「そうあるべきだよ。原稿をなくすことも、原稿のうちにふくまれるって思わないか?」