月曜 14:45~18:00
木曜 16:30~18:00
金曜 18:00〜21:30?
マディソン・スクエアのいつものベンチで、ソープィーはもぞもぞと体を動かした。雁が夜分高らかに鳴くとき、海豹の外套を持たない女たちが夫に優しくしはじめるとき、ソープィーが公園のベンチでもぞもぞと動くとき、冬はすぐそこまで来ている。
枯葉が一枚、ソープィーの膝に落ちた。ジャック・フロスト氏の挨拶状だ。ジャックはマディソン・スクエアの定住者に優しく、毎年しっかりと警告してから訪れる。四つの通りのそれぞれの角で、フロスト氏は挨拶状をノース・ウィンド氏、すなわちオール・アウトドア邸の召使いに手渡すので、住人たちも冬支度ができる。
ソープィーは時が訪れたことを悟った、対策検討委員会のひとりきりの委員となり、迫りくる酷寒に備えるのだ。それゆえ、いつものベンチでもぞもぞと動いていた。
越冬計画は、大それたものではなかった。思い浮かべた考えには、地中海クルーズも、南の空の下でまどろむことも、ヴェスヴィオ湾をゆらゆら漂うことも、入っていなかった。三か月、〈島〉に滞在すること、それを心の底から求めていた。三か月、食事と寝床に、気の合う仲間まで保証されて、ボレアースや青い制服の連中にも追いかけられないのだから、好ましいことだけを集めたかのようだった。
ここ何年も、居心地のいいブラックウェルズ島が、冬の宿泊地となっていた。同じニューヨーカーでも、恵まれた人たちがパームビーチやリヴィエラ行きの切符を冬のたびに買うように、ソープィーも控えめな手配をすることで、毎年、〈島〉への逃避行をしてきた。そして、いま、その時が来た。前夜は、安息日のぶ厚い新聞が三部、コートの下、足首の周り、膝の上に〈配達〉されたけれど、寒さを撃退することはできないまま、古い公園のしぶきを上げる噴水の傍にある、いつものベンチで眠った。そんなことだから、〈島〉のことが頭のなかで、ここぞとばかりに、大きく膨らんできた。蔑んでいたのは、慈善の名でなされる施しを受け、市の世話になること。ソープィーに言わせれば、刑罰のほうが博愛より、情け深い。数えきれないほどの施設を、行政や慈善団体が提供しているのだから、そこへ出向けば、分相応の寝床と食事を得て、「シンプル・ライフ」を送れるだろう。しかし、ソープィーのような誇り高き精神の持ち主には、慈善の施しは鬱陶しいだけだった。コインは要らずとも、精神的屈辱は、博愛の手から施しを受けるたびに要る。シーザーにはブルータスというように、慈善のベッドの前には入浴が課せられるし、パンをもらえば、お返しに、立ち入った身の上話を聞かせなければならない。それだから、よっぽどましなのは刑罰の客人になることで、規則づくめとはいえ、不当な詮索が紳士の個人的用件まで及ぶことはない。
ソープィーは、〈島〉へ行くことに決めると、さっそく、望みを叶えようと動き出した。簡単な方法はいくらでもあった。もっとも愉快なのは、贅沢な食事をどこかの高級レストランでとって、それから支払い不能を宣言、騒がず穏やかに警察官の手に引き渡されることだ。親切な裁判官が、後のことは取り計らってくれる。
ベンチを離れ、公園を出て歩き始めると、アスファルトの平らな海を渡った、ブロードウェイと五番街が合流しているところだ。ブロードウェイを北上し、立ち止まったのは、きらびやかなカフェの前、その店に夜ごと集まってくるのは厳選された一流品のみであり、材料は葡萄と蚕、そして、生命の源だ。
ベストの一番下のボタンより上には自信があった。髭も剃ってあるし、ジャケットもまともだし、こぎれいな黒いネクタイは、あらかじめ結び目ができている簡易タイプで、感謝祭の日に女性宣教師から貰っていた。いったんテーブルまで怪しまれずに辿り着いてしまえば、こっちのもの。テーブルの上に見える部分だけなら、給仕も疑いはしまい。真鴨のロースト、とソープィーは考えた、そのあたりかな――シャブリのボトルとカマンベールもつけて、それからデミタスと葉巻で一服、と。葉巻は一ドルで足りそうだ。全部足しても、そこまで高くはならないから、それほど激しい復讐心をカフェ経営者も起こしはしないだろう。それでいて、鴨肉のおかげで、満ち足りた幸せな気持ちのまま、冬の避難所に旅立つことができる。
ところが、レストランに足を踏み入れるなり、給仕長の視線が落ち、擦り切れたズボンと退廃した靴をとらえた。たくましい両手が、待ち構えていたかのように、ソープィーを回れ右させ、音も立てずに歩道に追いだし、危機にさらされていた真鴨を不名誉な運命から救った。
ブロードウェイから脇道に入った。念願の〈島〉への道は、美食の道ではないらしい。ムショ行きには別の道を考え出さねばならない。
六番街の角では、電飾と巧みに陳列された商品が、板ガラスの奥で、ショーウィンドウを目立たせていた。丸石を拾い、ガラスに投げつけた。人がわらわらと駆けてきた、警官を先頭にして。ソープィーは突っ立ったまま、両手をポケットに入れ、警官の真鍮ボタンを眺めてほくそ笑んだ。
「やったやつぁ、どこだ?」警官は息せき切って訊いた。
「ぼくが関係している可能性は、考えてもみないんですか?」ソープィーは言った、皮肉なしとはいかないが、親しみを込めて、幸運を迎え入れるかのように。
警官はソープィーを受け付けなかった、ほんの手がかりとしてすら。ウィンドウを粉々にしたやつが居残って、刑罰の手先と和平交渉するわけがない。逃げるのがふつうだ。警官の目に留まったのは、半ブロックほど先で路面馬車 をつかまえようとして追いかける男だった。警官も警棒を抜いて、その追いかけっこに加わった。ソープィーはうんざりした気分で、とぼとぼと歩きだした。またしても失敗だ。
向かいには、まったく気取らない店があった。相手にしているのは、旺盛な食欲と慎ましやかな財布だ。食器と空気は重苦しいが、スープとテーブルクロスは、うすい。すぐにボロを出す、お喋りな靴とズボンで入っても、見とがめられなかった。席に着くと、ビーフステーキ、パンケーキ、ドーナッツ、パイを平らげた。それから給仕に打ち明けた、自分は1セント硬貨とすら縁がない、と。
「さあ、とっとと警官を呼んでくれ」ソープィーは言った。「紳士を待たせるな」
「お前みてえなのに、お巡りは要らねえ」給仕は言った、声はバターケーキ、片目はマンハッタン・カクテルのサクランボみたいだった。「コン、来てくれ」
ちょうど左耳から、無情にも硬く舗装された道に打ち付けられるように、ふたりの給仕がソープィーを投げ出した。関節をひとつひとつ伸ばして、大工の折尺が開くように起き上がり、服の埃を払った。逮捕は薔薇色の夢に過ぎないのか。〈島〉は遥か彼方のようだった。警官がひとり、二軒隣の薬局の前にいたが、笑い声をたてて去って行った。
五ブロック歩くと、ようやく勇気が戻ってきて、逮捕を目指してもう一度がんばる気になった。こんどは幸いにも、「ちょろい」と呼べそうな状況が訪れた。若い女がひとり、感じのいい控えめな装いでショーウィンドウの前に立ち、髭剃り用マグカップとインクスタンドに、じっと見入っており、その二ヤード先にはいかめしい大柄な警察官が消火栓にもたれ掛っていた。
ソープィーの計画は、ろくでもない、けしからん「ナンパ師」を演じることだった。垢抜けて品のいい獲物のそばに、正義感あふれる警官が控えているのだから、がぜん、当局の柔らかな手が今にも腕をひっつかまえて、越冬地のある、すっきり小さな、ほっこり小さな島に行くのを、保証してくれるように思えた。
ソープィーは女性伝道師の簡易ネクタイを整え、引っ込み思案なカフスをおもてへ引きずり出し、帽子を粋に傾けて、若い女ににじり寄った。色目を使ってから、急に咳払いしたり「エヘン」と鳴らしてみせたり、にこにこ、にやにやしたりと、厚かましくて浅ましい「ナンパ師」の常套手段を、恥じらいもなくひと通りやりきった。ちらっと見やると、警察官はこちらをじっと見ている。若い女は数歩しりぞき、ふたたび髭剃りマグにうっとりと見入った。ソープィーは追いかけて、ぬけぬけと隣に寄り、帽子を上げて言った。
「やあ、ベデリア! うちのお庭に遊びに来ない?」
警察官はまだ見ている。つきまとわれた若い女が指一本で合図するだけで、ソープィーは、〈島〉という安息の地に向かっているも同然だ。すでに頭のなかでは、落ち着く警察署でぬくぬくしているところを思い描いていた。若い女はソープィーの方を向いて、片手を伸ばし、上着の袖をつかんだ。
「あら、男前さん」と言う女は、嬉しそうだった。「泡の立った水を一杯おごってくれるなら。さっきから声を掛けようと思ってたけど、お巡りが見てたから」
樫の木に絡みつくツタのようにしなだれ掛かる女を連れ、ソープィーは警察官の前を通りながら、ひどく打ちのめされていた。定められた運命は残念ながら、自由、らしい。
次の角で、ソープィーは連れを振りほどいて、逃げた。やがて立ち止まった界隈では、夜になると、街並みも、心も、愛の誓いも、歌声も、とびきり明るく軽い。女たちは毛皮、男たちは厚地の外套をまとい、冬の空気のなかを浮かれ歩いていた。突然、ソープィーはこわくなった。もしや恐ろしい魔法にかかり、逮捕されない体質になってしまったのではないか。そう考えると焦りも加わり、また別の警察官が、光り輝く劇場の前に堂々とたたずんでいるのを見かけるなり、手っ取り早いワラにすがりついた。「お騒がせ行為」だ。
歩道で、酔っぱらいみたいな支離滅裂なことを、思いきり、耳障りな声で叫んだ。踊る、吠える、わめき散らす、その他いろいろやって、天空をかき乱した。
警察官は警棒をくるりと回し、ソープィーに背を向け、通行人に言った。
「こいつぁイェールの学生で、ハートフォードのカレッジに0をお見舞いしてやったって、お祭り騒ぎしてんだ。うるさいけど害はねえ。こいつらのことは、ほっとけって指示が出てるから」
がっかりして、無駄さわぎをやめた。警察官はどうしても手を掛けてくれないのか。〈島〉が決してたどり着けないアルカディアに思えてきた。薄っぺらな上着のボタンをしめて、凍える風を防いだ。
煙草屋では、身なりのいい男が、店先に吊るされた火器で葉巻を点けようとしていた。男の絹の傘が、扉の脇に立てかけてあった。ソープィーは中に入り、傘をつかむと、ぶらりと外に出た。火のところにいた男が、あわてて追いかけてきた。
「おれの傘だ」男はこわい声で言った。
「へえ、これのことですか?」ソープィーはせせら笑いを浮かべ、軽窃盗罪に侮辱罪もつけ加えた。「それなら、警察官を呼んだらどうだ? 盗ったんだぞ。あんたの傘を! 呼んだらどうだ? そこの角にひとり立ってるじゃないか」
傘の持ち主の足取りが鈍った。ソープィーもそれに合わせながら、悪い予感がしていた、またも運に見放されそうだ。警察官はふたりを、いぶかしげに見ていた。
「ああ、そうでしたか」傘の男は言った。「つまり、えっと、間違いってありますでしょう。私は――いや、あなたの傘だったんなら、ごめんなさい。今朝、レストランから持って来てしまって――もし、見覚えがあるとおっしゃるんなら、その――おゆるしを――」
「決まってるだろう、おれのだ」とソープィーは言った、腹立ちまぎれに。
元・傘の男は退散した。角の警察官は、観劇用の外套に身を包んだ背の高いブロンドに駆け寄り、通りを渡るのを手伝った。路面電車が二ブロック先に迫っていた。
ソープィーは東に向いて歩き、改良工事のせいでぼろぼろになった通りを進んだ。怒りにまかせて、傘をくぼみに投げ込んだ。ヘルメットをかぶって警棒を持った連中への文句をぶつぶつと言った。捕まりたがっているくらいだから王様か何かなのだろう、と思われたらしい。王は悪を成しえないのだ。
しばらくして行き着いた東の大通りでは、きらめきも喧騒も、ほんのかすかだった。その大通りを、マディソン・スクエアの方に向かった。帰巣本能はたとえ巣が公園のベンチであっても消えはしない。
ところが、やけに静かな一角で、ぴたりと立ち止まった。古い教会があり、風変りで、ちぐはぐで、屋根は三角だ。すみれ色のステンドグラス越しに、柔らかな光が漏れてきて、きっと中ではオルガン奏者が鍵盤に指を滑らせ、次の安息日にむけて讃美歌の旋律をたしかめているのだろう。漂ってきて耳に届いた心地よい音色が、ソープィーをしっかりと捕らえ、渦巻き模様の鉄柵に吸い寄せた。
月は高く、艶やかで穏やかだった。乗り物も人も少なかった。雀が眠たそうに軒下でさえずった――つかの間、その光景は田舎にある教会の庭のようだった。オルガン奏者の讃美歌がソープィーを鉄柵から離れられなくしたのは、それが、かつてよく知っていた歌だったからだ。あの頃の暮らしには、母親や、バラや、野心や、友達や、汚れていない思考やシャツの襟があった。
感傷的になったソープィーに古い教会の佇まいが相まって、思いがけず、素晴らしい変化が魂に生じた。にわかに恐ろしくなって覗き込んだのは、転がり落ちていた奈落、堕落した日々、つまらない欲望、死んでしまった希望、駄目にした才能、卑しい動機、そんなものが自分を形づくっていた。
そしてたちまち、心臓も、この新しい気持ちに応えて高鳴った。とっさに起こった強い衝動が、絶望的な運命との戦いに向かわせた。ぬかるみから抜け出そう。もういちど立派な男になろう。自分を支配してきた悪に打ち克とう。時間はある。まだそれなりに若い。かつての熱い夢をよみがえらせ、くじけずに追い求めよう。荘重かつ甘美なオルガンの調べが、ソープィーに革命を起こした。明日には、けたたましいダウンタウンに出て職をみつけよう。毛皮商から、運転手をしないかと誘われたことがあった。あの男を明日には見つけ、訊いてみよう。俺だって、まともな人間になるんだ。俺だって――
ソープィーは、腕に誰かの手を感じた。振り返ると、顔の大きな警察官だった。
「何をしている?」と警官は言った。
「別に」とソープィー。
「じゃあ、来てもらおうか」と警官。
「〈島〉にて三か月」裁判官は翌朝、警察裁判所で言い渡した。