戸山翻訳農場

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I Hate to Leave This Beautiful Place by Howard Norman               川野太郎

 アメリカの作家ハワード・ノーマンは、一九八七年に長編小説The Northern Lightsでデビューして以来、現在まで七冊の長編を書き、短篇やエッセイも多く手がけている。デヴィッド・ボウイが数年前にリストアップして公開した「推薦図書100冊」のなかに、全米図書賞候補にもなったノーマンの代表作『バード・アーティスト』(The Bird Artist)があったのは、この作家に出会ったばかりの評者にはちょっとしたニュースだった。日本語で読めるものに、鳥類画家オーデュボンを思わせる、鳥だけを描きつづけた無名の画家が半生を振り返る『バード・アーティスト』(土屋晃訳)、霊魂の撮影に取り憑かれた富豪に雇われた写真家とその妻、そして助手の三角関係をめぐるノワール『Lの憑依』(茂木健訳)、紀行エッセイ集『静寂のノヴァスコシア』(栗木さつき訳)、そして『エスキモーの神話』(ノーマン編、松田幸雄訳)という文化人類学的フィールドワークの成果がある。

 

 I Hate to Leave This Beautiful Placeはノーマンの回想録である。「この美しい場所を離れたくない」というタイトルは、イヌイットの神話が由来になっている。シャーマンの魔法で渡り鳥に姿を変えられた男が、否応無しに生まれ故郷を立ち去らなくてはならなくなったときに発した言葉を、そのまま引用したという。この回想録は五つのエッセイで構成され、ノーマンが暮らしてきた土地がそれぞれの舞台として割り振られているが、この引っ越しばかりしている語り手は、自分の語りのトーンをこの神話に二重写しにしているように見える。彼をその場から立ち去らせるのは、彼自身の意志よりもっと不可解で大きな力なのだ。

 

 五つの場所で展開するエピソードはどれも独特でありながら、どこか通じ合うようなところもある。この微妙なバランスについて、ノーマンは序文でこう述べている。

 

思い出されることはなにか? 移動図書館と、とらえどころのない父がいたアメリカ中西部。風景画家と、彼女の乗った飛行機が墜落したサスカチェワン。無理心中が起こったわたしの家族の家。クアグミリウト・イヌイットの、ジョン・レノンのコピーをしていたロックバンド。そしてヴァーモントでは、迷子の猫、井戸の穿孔、兄が求めたカナダ密航。もしこれらの共通するところのない体験をつなげるものがあるとすれば、それはある期待のこもったわたしの意図である。それは、愛する風景のなかに自分自身を見出すことと――北カリフォルニア、ノヴァスコシア、ヴァーモント、北極地方――、それらの場所がどんなふうに、誠実な内省のための故郷、ものごとを考えつづける場所になってくれたかを描き出すことだ。

 

ここでは土地が重要な要素になっており、その語り口は、いまいる土地を立ち去る予感に満ちている。漂泊者としてのノーマンは、同じようにひとところにとどまることがなかった人物を呼び込む。なかでも、第三章に出てくる写真家ロバート・フランクと第四章に出てくる俳優ペーター・ローレは、両者ともヨーロッパで生まれ、世界を転々としながら、アメリカでも重要な仕事を残した人物だ。フランクの撮った写真や映画はジャンルをまたいで沢山の作家に影響を与え、ローレはハリウッドで『マルタの鷹』や『カサブランカ』といった映画に出演した。フランクはほんのつかのま語り手と言葉を交わすのみで、ローレにいたっては友人の友人として話に出てくるだけである。だが、その入退場のさりげなさのゆえに、彼らの存在感はいっそう強烈に感じられる。

 

 最初のエッセイ「父親らしい助言」によると、一九六〇年代半ばのミシガン州の片田舎に暮らすティーンエイジャーだったノーマンにとって最初の「自由な、独立した生活」のアイコンとなった者のひとりに、『オン・ザ・ロード』を書いたジャック・ケルアックがいて――ロバート・フランクの代表作となった写真集The Americansの序文を書いたのも彼だ――やはりというべきか、ノーマンは生涯を通じて移動の多い生活を送ることになった。しかし、アメリカじゅうを熱狂的に走りつづける『オン・ザ・ロード』の登場人物たちと違い、彼は移動への渇望を口にしたりはしない。タイトルを見ても明らかなように、彼の語りにおいては、新天地に抱く不安や期待にたいして、後にする土地への名残惜しさが勝っている。

 

 だが一方で『オン・ザ・ロード』は、構想を含めると実は十年近い時間をかけて書かれている。つまりケルアックは、書くことを通じて、小説に描かれる場所におよそ十年にわたって戻りつづけたわけだ。ノーマンの回想録の言葉は、ケルアックが彼なりの「経典」として一九六〇年に書いた断章集「The Scripture of the Golden Eternity」において「敬虔さをわすれずに待て(Have faith and wait)」と言うときの声をイメージさせたりもする。表面的な佇まいこそ異なるが、ノーマンと若い頃の彼が影響を受けたアメリカ小説の書き手は、それほど遠くない関係にあるのではないか。ケルアックもノーマンも、思い出の土地からはしぶとく動かなかった。

 

 第四章「カワセミの日々」で、語り手は南北戦争についてドキュメンタリー番組を観た翌日の黄昏時、カフェで食事中、その番組に出ていた南軍の兵士が通りを歩いてゆくのを目撃する。だが彼は心を揺さぶられながらもどこか落ち着いており、逃げだしたり、そのエピソードを幽霊騒ぎに仕立てたりはしない。奇妙な、しばしば不気味でさえある出来事も、語り手にとっては、それまで知らなかった、ゆえに興味ぶかい世界の側面なのである。

 

 そんな「待つ」語り手のきわめつけは、「ミヤコドリの癒す力」という題の冠された最終章に見出せる。ノーマン一家が家を留守にしているあいだ、ハウスシッターをしていた女性が彼女の幼い息子を殺め、みずからも命を断ってしまう。一家(語り手と妻、そして娘)は自宅に帰り、そこでまた生活を始める。彼は黒いノートが家のそこかしこに隠されているのを発見し、そこに書かれたものを読んで嘔吐し、ときおり母子の影が部屋の壁を横切っていくのを見るようになる……こうしたエピソードがたんなる怪談話にならないのは、語り手が思考に、ひいてはその場所にとどまろうとする意志のなせるわざだ。

 

 語り手は家にとどまるあいだに周囲を徹底して観察し、イヌイットの友人を招き、人の魂について思いを巡らし、車で遠出をしてバードウォッチングに出かけ、そこで出会った人と言葉を交わし、詩を読む。こうした行動は、人によっては奇妙に思われるかもしれない。つまり、こういうときこそなにを差し置いても引っ越すべきでは? だがここにこそ、ノーマンのテキストに登場する人物がほぼつねにもっている、行動の癖のようなものが見出せる。ノーマン的な世界の住人は、そこに息をひそめてとどまることで、内的に移動するのだ。最後のエッセイはその好例で、語り手が家から動かなかったにも関わらず、物語の駆け出しと結末であきらかに変わった風景を見れば、その感触がわかるだろう。

 

 小説『Lの憑依』で、写真家の助手である語り手のピーター・デュヴェットは、仕事のためには殺人も厭わない雇い主に彼の妻との不倫を知られてしまう。だが、そんなのっぴきならない関係に追い込まれても、ピーターは寒気にとざされたホテルを出ようとはしない。「(…)ヴィエナ(=引用者注:雇い主の写真家)の前で背信という罪悪感に苛まれている現状に比べ、広大な未知の世界への脱出が賢明な判断とは思えなかった」、と彼は言う。なぜなら、「ぼくが閉じこめられている世界に、味わい、感じ、そして語りあえる可能性があったからだ」。家を去らないノーマンにもっと説明的な声を与えるとするなら、このピーターの独白に近いものになるのではないだろうか? この回想録の語り手もまた、「味わい、感じ、そして語りあえる可能性」をはらんだ「世界」のなかにいて、その世界の新たな局面が開けてくるのを待っているのだ。

 

 ノーマンの暮らす場所は、アメリカ中西部の片田舎からカナダ北部のイヌイット居住区まで、いつも辺境と言っていいような場所であり、そこで体験される出来事は外部と切り離されて感じられ、神話的ですらある。だが一方では、文化史に組み込まれうる事物がそこかしこにちりばめられており、そうした要素がノーマンの足取りを、より具体的な時間と空間のなかに位置づけている。表題と同じ題名をもつ第三章において、ラジオ速報のニュースという形で告げられるジョン・レノンの死がもっともわかりやすいだろう。単純な因果論では結びつかない様々なエピソードによってテキストは混沌としているが、時折ひとつの時代に言及する指標が、混沌は混沌なままにそこに秩序をあたえ、地図にしているような印象を受ける。

 

 本のタイトルの由来だけでなく、五つのエッセイの章題のじつに三つに鳥の名前が含まれている(「グレイグースの群れの降下」「カワセミの日々」「ミヤコドリの癒す力」)。本書について触れるとき、鳥のことは避けて通れないのだ。ノーマンはバードウォッチャーである。ここに登場する鳥たちはまずもって、どんな文学的な比喩でもない、語り手が近づこうとしても一定以上は近づけない、鳥そのものだ。だがそれと同時に、一度その場所を立ち去ってはつねに戻ってくる彼らは、五つの土地を立ち去りながらつねに再訪せずにはいないノーマン自身が抱える「贈り物でもあり、同じ程度に呪いでもある」記憶との関係の隠喩として、テキスト全体に響いてもいる。

 

 

 この鳥のもつ厚みが、本書を支えている。読み返すたびに、鳥が異なる側面を見せるのに出会うはずだし、それはそのまま本書の、ひいては語り手が体験した世界の重層性ほとんどそのもののように感じられる。そうした世界を、鳥の観察者たるノーマンは、目立たないように近づき、さわがず見つめるのだ。