月曜 14:45~18:00
木曜 16:30~18:00
金曜 18:00〜21:30?
時計が六時をつげると、アイキー・スニッグフリッツはアイロンを置いた。アイキーは仕立屋の見習いだった。このご時世、仕立屋の見習いなんてのがいるのだろうか?
それはともかくとして、アイキーは裁断に仕付け、アイロンがけ、修繕、地直しを仕立屋特有の悪臭がもうもうと立ち込めるなかで一日中こなしていた。だが仕事を終えると、アイキーは [1]彼の天空で輝く星に馬車をつなげた。
それは土曜日のことだった、親方は十二枚のぼろぼろな一ドル札をしぶしぶ渡した。アイキーは丁寧に手を洗い、コートを羽織り、帽子をかぶるとすり切れたネクタイに玉髄のピンが留まった襟を締めた。そして理想を追求する旅に出かけた。
人は誰しも、一日の仕事が終わると、自分の理想を探し求めるに違いない。それが愛だろうが、[2]ピノクルだろうが、ロブスターのニューバーグソース添えだろうが、かび臭い本棚の静かな甘美な静寂だろうが。
アイキーを見てみよう。彼は轟々うなる高架線の下、悪臭を放つ劣悪な工場のならびに挟まれた道をぶらぶら歩いている。血色が悪く、猫背でみすぼらしい、不潔で、身も心も貧しい一生を送る運命であったが、そうはいっても、安っぽいステッキを振り回して煙草から吸引した有害物質を吐きだしているので、彼がその貧弱な胸のなかで社会の細菌を育てているのが分かる。
アイキーが足を伸ばして踏みいれたのはあの有名な娯楽場で、カフェ・マジニスとして知られていた―有名なのはビリー・マクマハンのたまり場だったからで、彼は最も偉大で素晴らしい、アイキーが思うに、世界の至宝であった。
ビリー・マクマハンはその地区のリーダーだった。彼にかかれば[3]タイガーもゴロゴロと喉をならすし、手中にある施しはばらまけるほどであった。そして今、アイキーが店に入ると、マクマハンは頬を紅潮させて勝利に酔い、参謀や支持者が歓声をあげる輪の中心に堂々と立っていた。どうやら選挙があったらしかった。圧倒的な勝利だったのだろう。我慢の限界に達した票を大量にかっさらって街が一つになったようだった。
アイキーはこそこそとカウンター沿いに歩き、神様を、呼吸を速めながら見つめた。
なんて素晴らしいビリー・マクマハンだろう。威厳に満ち、なめらかな、笑みをたたえた顔。灰色をした眼光はタカのように鋭い。ダイヤの指輪、ラッパのようにはつらつとした声、気高い雰囲気、丸く膨らんだ羽振りのいい札束、明快に響き渡る友人や同僚への呼びかけ―ああ、なんていう人類の王者だろう! 彼の参謀たちが霞んでしまっているではないか、彼らだって、圧倒されんばかりに厳格な様子で立ちはだかり、ひげを青く剃り上げた物々しい風貌で、手をショートコートのポケット奥深くに突っこんでいたというのに! けれどもビリーは―ああ、言葉というのはなんて役立たずなのだろう、アイキー・スニッグフリッツの目に映ったビリーのすばらしさを説明するには!
カフェ・マジニスは勝利に沸いた。白いコートのバーテンダーたちは次々とボトルを取り出してコルクを抜き、グラスに注いでいった。店内は、純ハバナタバコからもくもくと出る不純な煙で充満していた。誠実な者や期待をかける者はビリー・マクマハンの手を握った。それから突然アイキー・スニッグフリッツの信心深い心の中に芽生えたものがあった。大胆で興奮に満ちた衝動だ。
アイキーは主君が移動した場所のわずかな隙間におどり出ると、手を差し出した。
ビリー・マクマハンは何のためらいもなくしっかり握り、にっこりと微笑んだ。
アイキーは神々が自分を押し潰そうとしていることに腹を立て、意を決するとオリンポスへと突っ込んでいった。
「僕と一杯どうでしょう、ビリー」アイキーは親しげに言った。「友人もご一緒に」
「それはもちろん、ぜひ」偉大なリーダーは答えた。「盛り上がろうじゃないですか」
アイキーの最後の理性が火花を散らして吹っ飛んでいった。
「ワインを」とバーテンダーに呼びかけ手を挙げたが、震えていた。三本のボトルからコルク栓が抜かれた。バーカウンターにずらりと横一列並んだグラスの中でシャンパンの泡が泡立った。ビリー・マクマハンは自分の分をとると会釈した。晴れやかな笑顔をアイキーに向けて。参謀やとりまきたちもおのおのグラスを持つと、「ほら、あんたのだ」とぶっきらぼうに言った。アイキーは天にも昇る気持ちで美酒を手にした。皆で乾杯した。
アイキーはくしゃくしゃに丸まった一週間分の給料をカウンターの上に投げ出した。
「確かに」そうバーテンダーは言いながら十二枚の一ドル札を引っぱった。
人々がまたビリー・マクマハンを囲うようにどっと押し寄せた。誰かが、ブラナガンのやつが十一番街の人間をうまくまるめこんだんですよ、と言っていた。
アイキーはしばらくカウンターに寄りかかっていたのち、外へ出た。
ヘスター通りを下り、クリスティー通りをのぼり、それからディランシー通りを下りて自宅に戻った。家にいた女たち、飲んだくれの母親と三人のみすぼらしい姉妹が給料を狙ってアイキーめがけて飛びついた。そしてアイキーが白状すると四人はキーキーと金切り声をあげ、この地域のきつい訛りで責めたてた。
だが引っ張られようが、たたかれようが、アイキーは恍惚として喜びに酔いしれたままだった。上の空だった。星がアイキーの馬車を引いていく。成し遂げたことに比べたら、消えた給料も女たちの口をついて出てくるわめき声も大した問題ではなかった。
彼は握ったのだ、ビリー・マクマハンの手を。
ビリー・マクマハンには妻がいて、訪問用のカードには“ウィリアム・ダラー・マクマハン夫人”の名が記されていた。そしてこれらにまつわる、ある悩みの種があった。というのは、カードが小さかったとはいえ、ドアに差し込めない家があったのだ。ビリー・マクマハンは政界の独裁官、そしてビジネス界の巨塔、つまりは大物だった。側近の人間から畏れられ、愛され、慕われていた。彼は富豪になりつつあった。日刊新聞は彼の行く先々に何十人もの記者を派遣し、英知に富んだ言葉を一言一句記録した。ビリーは風刺画に、鎖につながれて縮こまるタイガーたちを抱える姿で描かれ、たたえられた。
けれども、ビリーの心は時おり、悲しみで痛んだ。別の人種が遠く離れたところにいて、ビリーは約束の地を見渡すモーゼのような目で見つめるだけだった。ビリーにもまた理想があったのだ、アイキーと同じように。そして、達成への望みを失ってしまい、自身の確かな成功がひどく苦々しいものに思えることがあった。ウィリアム・ダラー・マクマハン夫人はぽっちゃりではあるけどもかわいらしい顔に不満を浮かべており、シルクドレスの衣擦れの音はため息に聞こえた。
華やかで目を引く人々が著名なホテルの食堂に介し、ここぞとばかりに着飾って魅力を振りまいていた。テーブルの一つにビリー・マクマハンと妻が座った。ほとんど無言の二人だったが、身に着けていた宝飾品に会話の許可が必要ないのは言うまでもなかった。マクマハン夫人のダイヤモンドが部屋のなかでわずかにきらめいた。ウェイターが最高級銘柄のワインをテーブルに運んだ。夜会服に身を包み、ひげのない、がっちりした顔にあらわれた絶望的な表情。ビリーよりも目立つ人間を探すなんて無駄というほどであった。
四つ離れたテーブルに一人で座っていたのは長身の痩せた男で、年は三十くらい、物思いにふける憂鬱な目、細くとがったあごひげをたくわえ、おどろくほど白くてほっそりとした手をしていた。小さなヒレ肉のステーキ、素焼きのトースト、炭酸水を夕食に取っていた。この男はコートランド・ヴァン・ダイキング、八千万ドルの資産があり、社会の上流階級の中心において不可侵の地位を引き継いでいた。
ビリー・マクマハンは周りの人間の誰にも話しかけない。なぜなら、誰のことも知らなかったからだ。ヴァン・ダイキングは皿の上に目を落としたまま、なぜならここにあるすべての目が彼をとらえようと躍起になっているのに気づいているからだった。彼は一度うなずくだけで騎士の地位や名声を与えられたが、むやみに与えるにはためらいがあった。
そしてその時、ビリー・マクマハンは人生で一番驚くほどに大胆なことがひらめくと、動いた。ゆっくりと立ち上がると、コートランド・ヴァン・ダイキングのテーブルへと向かい、手を差し出した。
「あ、あのう、ヴァン・ダイキングさん」ビリーは言った。
「きみ、いや、あなたが私の選挙区で貧困層の救済を始めたと話していると、う、うかがいまして。私がマクマハンです。それで、まあ、それが確かなのでしたら、私にできることは何でも、お手伝いいたします。それに、あの一帯は私の言いなりでしてね。いや、その、まあ、私はおそらくそうだ、と思って、いるのですけれど、ええ」
ヴァン・ダイキングの憂鬱な瞳が明るくなった。立ち上がるとすらりとしていて、ビリー・マクマハンの手をきつく握った。
「ありがとうございます、マクマハンさん」深みのある、真剣な声色だった。「そういったことを何かやろうと考えている最中でして。協力していただけるのならありがたいことです。あなたにお会いできてよかったです」
ビリーは席に戻った。高貴な方から爵位を授かり、肩が震えた。何百という目が羨望と新たな賞賛を込め、今やビリーに注がれている。ウィリアム・ダラー・マクマハン夫人はあまりのうれしさに身を震わせ、その拍子にダイヤモンドが目に痛いくらい鋭い輝きを放った。そして明らかに今、あちこちのテーブルで急にマクマハンと知り合いだったかのように振る舞う人たちが出てきた。ビリーはこちらに向けられた笑顔や会釈を目にした。まばゆいほどのすばらしいオーラに包まれた。選挙での冷静さはどこかに行ってしまった。
「ワインをあそこのやつらに!」ビリーはウェイターに言いつけ、指で指し示した。「ワインをあそこに。あの植木のそばにいる三人の紳士にもだ。私のおごりだと伝えてくれ。ええい、もういい! 全員にワインだ!」
ウェイターは思い切って小声で、その注文をお受けするのはあまり適当でないかもしれませんとビリーに伝えた。この店の格式と慣習がありますので、と。
「分かった」ビリーは言った。「それが駄目なら、友人のヴァン・ダイキングにボトル一本贈る形ではどうだろう。それも駄目なのか? でも、どっちみち、あっちのカフェじゃ酒が溢れかえるんだろう。夜中の二時になる前に来る人は皆、長靴が必要になるさ」
ビリー・マクマハンは幸せだった。
彼は握ったのだ、コートランド・ヴァン・ダイキングの手を。
大きなペールグレーの車が金属細工の装飾を輝かせながら、場違いに[4]ロウワーイーストサイドの手押し車やゴミ山のなかを移動していた。コートランド・ヴァン・ダイキングについても同じで、上品な顔つきに白く繊細な手をした彼が、慎重にぼろぼろの服で道を走り回る子どもの集団のあいだでハンドルを切っている。ミス・コンスタンス・スカイラーもまたしかり、おぼろげで禁欲的な美しさをたたえて隣に座っている。
「ねえ、コートランド」コンスタンスがため息をつきながら言った、「人間がああやって惨めに貧しく生きなければならないなんて、悲しいことね。でもあなたはといえば―なんて素晴らしいのかしら、人々を思って、自らの時間とお金を割いて生活を改善しようとしているだなんて!」
ヴァン・ダイキングは真剣なまなざしを彼女にむけた。「ほんの少しなんだよ」ヴァン・ダイキングは悲しげに言った。「自分にできることなんて。この問題は根深く、社会にしか解決できないものだ。けれども個人の努力だって捨てたもんじゃない。ほら、コンスタンス! この通りにはスープの炊き出し所を設置するよう手配した。空腹の人間が追い返されるようなことがなくなる。それからこちらの通りを下ったところに古い建物があるんだが、取り壊して跡地に別のものを建てようと思っている。火事や病気といった死の温床に代わるものを、だ」
ディランシー通りをそろそろと下っていくペールグレーの車。のろのろと車から離れる、くしゃくしゃ頭に裸足の、体も洗っていない不思議そうな顔をした子どもたち。車は、あちこちにひびが入ったレンガ造りのゆがんだ、汚らしい建物の前で止まった。
ヴァン・ダイキングは車から降りると、傾いた壁の一つをよく確かめようとした。建物の階段をおりてくる若い男がいる。建物の退廃と不潔と災いを象徴するかのよう―胸板は薄っぺらで、青白く、生気の抜けた若い男で、たばこをふかしていた。
突然衝動にかられ、ヴァン・ダイキングは早足で近づいて興奮気味に、生きた呵責とでもいうべき存在の手をにぎった。
「あなたのような人のことを知りたいのです」誠意を込めて言った。「できる限りのお手伝いをするつもりです。友人になってくれませんか」
車が慎重に離れていくなか、コートランド・ヴァン・ダイキングに経験したことのないものが心にこみあげた。幸せがすぐそこまで来ていた。
彼は握ったのだ、アイキー・スニグルフリッツの手を。
[1] R.W.エマーソンの著書「社会と孤独」に「汝の馬車を星につなげ」という一節があり、大望を抱けという意味が込められている。
[2] トランプをつかうカードゲームのこと。
[3] ニューヨーク市では一九世紀中ごろに、民主党の政治団体タマニーホールが市制を牛耳り、腐敗政治を行っていた。その際、新聞では虎の姿で風刺されることがあった。
[4] マンハッタン南東部。移民が多く住み、スラム街として有名だった。