戸山翻訳農場

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三角関係                                                                      訳:藤原早希世

 時計が六時を告げると、アイキー・スニグルフリッツはアイロンを置いた。アイキーは仕立屋の見習いだった。このご時世、仕立屋の見習いなんているのだろうか。

 それはともかく、アイキーは身を粉にして働き、裁断し、縫い、アイロンをかけ、修繕し、染みを抜き、仕立屋のむわっとした悪臭の中にいた。けれども仕事が終わるとアイキーは、彼の天空で輝く星にむかって進んでいく。

土曜日の夜、主人が十二枚のしわしわのドル札をしぶしぶ彼に手渡した。アイキーは、丁寧に手を洗い、コートと帽子、よれよれのネクタイと玉髄のピンのついた襟首を身につけて、彼の理想を求めて外へ出た。

  人は誰しも、日々の仕事を終えると、それぞれの理想を求めるのだ。それが、愛であれ、ピルクルであれ、ロブスター・ニューバーグのご馳走であれ、はたまた黴臭い本棚の甘美な静寂であれ。

アイキーを見てみよう。彼はゆっくり歩いていた、轟々と響く高架鉄道の下の悪臭漂う劣悪な工場が建ち並ぶ通りを。青白く、猫背で、卑しく、不潔で、永遠に心身ともに貧乏人として生きることを運命づけられている。が、今はまだ、彼は安っぽい杖をぶらつかせ、タバコから白い煙を吐き出している。ちっぽけな胸の中に社会の細菌(はやり)を育てているのが見てわかる。

アイキーの足は有名な娯楽施設へ向かい、入っていったがカフェ・マジニスと呼ばれるそこは、ビリー・マックマハンのたまり場として有名で、ビリーはアイキーの考えでは世界がこれまで生み出した中で最も偉大で最もすばらしい男性だった。

ビリー・マックマハンはその地区の長だった。彼の前では(1)タイガーどもさえ喉を鳴らし、その手には人々へ与えられるだけのほどこしが掴まれていた。今、アイキーが入るとマックマハンは頬を紅潮させ、勝ち誇った様子で力強く立っていて、参謀と支持者の歓喜の群れの中心にいた。どうやら選挙があったらしく、すばらしい勝利をおさめたようだ。現状に我慢のできなくなった票を一挙にかっさらって、街は元の姿に戻りつつあった。アイキーはこそこそとカウンターに沿って歩き、息をはやめて彼のアイドルを見つめた。

ビリー・マックマハンのどれほど立派なことか。偉大で、若々しい笑顔、その灰色の目は鷹のように鋭く、ダイアモンドの指輪に、らっぱのようにはつらつと通る声、その気品ある風格に、ふっくらと丸めた札束、友人や仲間への明快に響き渡る呼びかけ―ああ、なんと王にふさわしい男なのだ!ビリーの前では彼の参謀たちも影が薄くなってしまっていた、彼らにしても大きく堂々と存在し、青々としたあごや尊大な態度で短めのオーバーコートのポケットに手をつっこんでいるにも関わらず、だ!しかし、ビリーは―ああどんな言葉が役に立つというのだ、アイキー・スニグルフリッツの見たままに彼の華々しさを描くには!

カフェ・マジニスは勝利の声が鳴り響いていた。白い上着を着たバーテンダーたちは手際よく、ボトルを取り出し、コルクを抜き、グラスに注いでいった。曇り一つない純製のハバナ葉巻が煙を生み、その矛盾した雲を空気が受けとめている。忠実な人々や希望に満ちた人々がビリー・マックマハンと握手していた。突然、アイキー・スニグルフリッツの敬虔な魂に、大胆かつわくわくさせる衝動が生まれた。

アイキーは、偉大なるその人が移動してできた小さなスペースに躍り出ると、手を差し出した。

ビリー・マックマハンは躊躇なくその手をとって、握り、そしてにっこりと笑った。

ゼウスに仕える神々のような取り巻きたちが彼を押しのけようとするのにカッとなって、アイキーは覚悟を決め、主神のおわすオリュンポスへと切り込んでいった。

「僕と一杯飲みませんか、ビリー」彼は親しげに言った。「あなたと、それからお友達も。」

「それはいいですね」偉大な首領はそう答えた。「この場を盛り上げるには、ちょうどいい。」

辛うじて保たれていたアイキーの理性は火花を散らし、飛んでいった。

「ワインを」彼はバーテンダーを呼んだが、挙げたその手は震えていた。

 三つのボトルのコルクが抜かれた。カウンターにずらっと並んだグラスの列には、注がれたシャンパンが泡立っていた。ビリー・マックマハンは自分のグラスを手に取り、アイキーに頷き、輝かんばかりの笑みを湛えた。参謀や取り巻きの衛星たちも、各々のグラスを持ち上げ、そっけなく言った。「ほら、お前の分だ。」アイキーは興奮状態でその神酒を受け取った。皆が一斉に口をつけた。

 アイキーは、皺くちゃに丸めた一週間の給料をバーカウンターに投げ出した。「確かに」と言ってバーテンダーが、十二枚のドル札のしわを伸ばした。再び取り巻きがビリー・マックマハンの周りにどっと押し寄せた。誰かが、いかにして十一番街あたりをブランニガンが丸め込んだか噂している。アイキーはしばらくカウンターに寄りかかり、それから外へ出て行った。

 ヘスター通りを南へ下り、次にクリスティー通りを北へ、そしてデランシー通りを南へと、彼の住処を目指して歩いた。そこでは、家族の女連中、酒飲みの母と薄汚れた三人の姉妹たちが待ち構えていて、アイキーにとびかかって給料をせがんだ。そして彼が白状するなり、キーキーと声を上げて、この地域ならではのなまりのある言葉でアイキーをひどく非難した。

 しかし、アイキーは彼女たちにぐいっと引っ張られ、打たれていた時でさえ、恍惚とした喜びの中にいた。上の空だった。天空の中で輝く星が彼を引き上げていた。彼が成し遂げたことに比べれば、ぱあになった給料も、女たちのけたたましい声もとるにたらないことだった。

 彼は握手をしたのだ、あのビリー・マックマハンと。

 

 

 ビリー・マックマハンには妻がいて、彼女の訪問用のカードには「ウィリアム・ダラー・マックマハン夫人」という名が印刷されていた。そしてこれらのカードにはある悩みの種があった。というのも、小さいものとはいえ、それらを置いてこられない家々があったのだ。ビリー・マックマハンは政界の独裁者であり、ビジネス界では巨塔のような存在である、いわば大物であって、支持者の間でおそれられ、愛され、慕われていた。彼はどんどん裕福になっていた。多くの日刊紙が彼の行く先に何人も記者を置き、彼の聡明な発言の数々を記録させた。彼が敬意を向けられていたのは、おびえているタイガーどもをひもでつないでいる風刺画からも見て取れた。

 しかし、ビリーの心はときどきひりひりと痛んだ。別の人種がいて、彼らはビリーとは遠く離れた世界にいるからで、モーセの目が約束の地を見渡すようにビリーはそこを見つめていた。彼もまた理想を持っていたのだ、ちょうどアイキー・スニグルフリッツが持っていたのと同じように。そして、それを成し遂げられる見込みはなく、ときたま、彼自身の確固たる成功もつまらないものだとこぼすのであった。ウィリアム・ダラー・マックマハン夫人は不満そうな表情をそのふっくらとしながらも可愛らしい顔にはりつけ、ドレスの絹が擦れる音はまさに溜め息のようであった。

 有名なホテルの大広間で、一際派手で人目につく会食があって、そこでは上流階級の人々が魅力を見せびらかしていた。そのうちのあるテーブルに、ビリー・マックマハンとその妻は座っていた。おおかた無言の彼らだったが、身に付けたアクセサリーは褒め言葉を口にする必要がほとんどなかった。マックマハン夫人のダイアモンドは部屋の中でもほとんど引けを取らず、ひときわ輝いていたのだった。ボーイが最高級のワインを彼らのテーブルに運んできた。燕尾服に包まれ、つるりとしてどっしりとした顔に憂いを浮かべているのでビリー以上に目立つ存在を見つけようとしても無駄だったろう。

四つほど離れたテーブルに、一人で腰かけていたのは背の高い細身の男性で、年齢は三十歳ほど、もの思いにふけった陰のある瞳に短くとがったあごひげ、そして異様に白く細い手をしている。彼はフィレ肉のステーキと何もつけていないトースト、それから炭酸水の晩餐をとっていた。その男はコートラント・ヴァン・ダイキンク、八千万ドルもの富を有し、社会の上流階級の中枢で神聖な地位を継承し、保持する男だ。

 ビリー・マックマハンは周りの誰にも話しかけなかった、誰のことも知らなかったからだ。ヴァン・ダイキンクも彼の皿からじっと目を離さずにいた、会場にあるすべての目が彼の視線を捉えようと飢えていることを知っていたからだ。彼はうなずくだけで騎士の地位や、それに伴う名声を授けることができたが、そのような身分をむやみに与えないようにしていた。

 それからビリー・マックマハンは人生の内で最も驚くべき、かつ大胆なことを思いつき、行動に移した。ゆっくりと立ち上がり、コートラント・ヴァン・ダイキンクのテーブルへと歩み寄ると、手を差し出したのだ。

「ど、どうもヴァン・ダイキンクさん」彼は言った。「あの、あなたが以前お話して、されていたのを耳にしたことがあるのですが、私の地区の貧困層の間で、その、なにか改革を始めるおつもりだとか。私はマックマハン、ご存じだとは思いますが、はい。それであの、もし、そのことが本当なら、できることは何でもお手伝いしましょう。私が言うことはたいがい上手く運ぶのですよ、ええ、あの辺りでは。ああ、いや、多分そうだろうと思います、はい。」

 ヴァン・ダイキンクのかなり憂鬱だった目は輝いた。彼はすくっと立ち上がり、ビリー・マックマハンの手を握った。

「ありがとうございます、マックマハンさん」真面目な口調で話した。「何かその手の活動をしようかと考えていたのですよ。あなたのお力添えは心強い。知り合うことができて嬉しいです。」

 ビリーは自分の席に戻った。彼の肩は興奮で震えた、高貴な方から爵位を授けられたのだから。今や百の眼差しが彼に注がれ、そこには羨望と新たな称賛が込められていた。ウィリアム・ダラー・マックマハン夫人は恍惚として震え、そのために彼女のダイアモンドの輝きが目に痛いほど差し込んだ。それから、なんだか急に、多くのテーブルでマックマハンと知り合いであったかのようなふるまいを思い出す人々が現れた。マックマハンは自分に向けられた笑顔と会釈を眺めた。くらくらするほど偉大なオーラに包まれていた。選挙での冷静さはどこかへ行ってしまった。

「そこのやつらにワインを!」ビリーは指さしでウェイターに命じた。「あっちのやつらにもワインを。あの植木のそばのやつら皆にワインだ。彼らには私のおごりだと伝えてくれ。ええい、もういい!全員にワインだ!」

ウェイターが思い切って小声で言った、その注文をお受けするのは適当ではないかもしれません、うちの店の格式や慣習を考えますと、と。

「いいだろう」ビリーは言った「もし、それがルール違反なら仕方ない。我が友、ヴァン・ダイキンクにボトルを送るのはいかがかな。ダメかね?うーん、今夜はあっちのカフェは酒で溢れるんだろう、どっちみち。ゴム長靴が必要だな、深夜二時までにそこに来る人はみんな。」

 ビリー・マックマハンは幸せだった。

 彼は握手をしたのだから、あのコートラント・ヴァン・ダイキンクと。

 

 

 大きくて淡いグレーの金属部分を輝かせた自動車が、(2)イーストサイドの南の手押し車やごみの山の間をゆっくり移動していたのは場違いな様子だった。コートラント・ヴァン・ダイキンクが貴族然とした顔立ちと白く薄い手をもって、路上にいるぼろを着たちょこまかした子供たちの間を慎重に運転しているのも。コンスタンス・スカイラー女史がその儚く、禁欲的な美しさを湛えながら、彼の横に座っているのも。

「ねえ、コートラント」彼女はため息をつき、「こんな悲しいことってあるかしら、人があんな風に惨めに、貧しく生きていかなきゃいけないなんて。あなた、―あなたはなんて立派なの、彼らのことを思って、時間もお金も割いて彼らの状況を改善しようだなんて!」

 ヴァン・ダイキンクは、その真剣な視線を彼女に向けた。

「そんなにないんだよ」悲しげにそう言った。「僕にできることなんて。この問題は大きくて、社会が何とかするものだよ。だけど、個人の努力だって捨てたものじゃないさ。見てごらん、コンスタンス!こっちの通りに私が炊き出し施設を整備したんだ。ここでは腹を空かせた者は誰であっても拒まない。それからあっちの通りを下ったところにある古いビル群については、私が取り壊させて、何か別のものを建てさせることになっているんだ、今現在の病や火事を招きかねない死の温床の代わりにね。」

 デランシー通りをゆっくりと這うように進んでいったのは淡いグレーの自動車だった。車から離れたところをふらふらしていたのはもつれた髪の裸足で小汚い子供たちだった。そして壊れそうな煉瓦の建物の前で止まった。それは悪臭を放ち、ゆがんでいた。

 ヴァン・ダイキンクは、車を降りてその傾いた壁をもっとよく見ようとした。建物の階段を下りてきたのは、若い男で、その建物の退廃や不潔さ、朽ちた様子を象徴するように貧弱な胸板で、蒼白くあわれな感じがあり、タバコをふかしていた。

 咄嗟の衝動に突き動かされ、ヴァン・ダイキンクは歩み寄り、あたたかに掴んだのは、彼にとって存在するだけで叱責を与えてくれるような者の手であった。

「私はあなたのような人々のことを知りたいのです。」彼は心から話した。「できるだけあなた方の力になります。私たちはきっと友人になれますよ。」

 自動車を慎重に徐行させながら、コートラント・ヴァン・ダイキンクは心に味わったことのない高揚感を覚えた。幸せになる、すぐそこまできていた。

 彼は握手したのだった、あのアイキー・スニグルフリッツと。

 

 

 

(1)十八世紀末~二十世紀に存在したアメリカ民主党の派閥タマニーホールの俗称。十九世紀半ばには票の買収操作の代名詞となるほど悪名を広げ、民主主義を食いつぶす虎としてタイガーと呼ばれた。

 

(2)マンハッタンの地区の一つ。二十世紀までは伝統的に移民や労働者階級が住みついていた。