月曜 14:45~18:00
木曜 16:30~18:00
金曜 18:00〜21:30?
我々のものである一日がある。我々アメリカ人、自ら身を立てたとはいえない者がみな、古き我が家へ帰り、重曹で膨らませたパンを食べ、古いポンプはこんなに玄関に近かったのかと驚く一日がある。この日に神の祝福あれ。ローズヴェルト大統領が我々に与えてくれるのだ。ピューリタンの話を何やら耳にするが、それが何者だったかはよく覚えていない。とりあえず、そんな連中が再び上陸しようとしても、簡単にやっつけられるだろう。プリマス・ロック [i]? まあ、そのほうが聞き覚えがあるかな。協定で七面鳥の値段がつり上げられてからというもの、我々の多くは雌鳥で妥協するしかなくなってしまった。だというのに、ワシントンのだれかはいまも感謝祭宣言の前情報を漏らしているのだ。
クランベリーの沼の東にある大都市でも感謝祭の日は制度となった。十一月最後の木曜日は一年で唯一、フェリーの向こう[ii]にもアメリカの一部があることをその大都市が思い出す。純粋にアメリカ的な日だ。そう、祝いの日、アメリカだけの日なのだ。
そしてこの物語は、大洋のこちら側の我々にも伝統があり、それがイギリスをはるかに上回る速度で成熟していることを証明するものである――それは我々の積極性と進取の気性の賜物だ。
スタッフィー・ピート[iii]は、ユニオン・スクエアの東から入って右側三番目、噴水の向かいの小道のベンチに座った。感謝祭の日はこの九年間いつも、一時きっかりにそこに座っていた。そうするたびに事が起きるのだ――チャールズ・ディケンズの小説のような、チョッキの胸の上のほうと、同様に下のほうも満足に膨らませてくれる事が。
しかしこの日、スタッフィー・ピートが毎年の待ち合わせ場所に現れたのは、習慣に引きずられたというふうで、慈善家たちに言わせれば年に一度くらいは貧乏人を苦しめるのだろうという、空腹のためではないようだった。
そう、ピートは腹を空かせていなかった。大宴会の直後で、かろうじて呼吸と移動ができるくらいの力しか残っていなかった。彼の目は、色の抜けたグズベリーが二粒、肉汁まみれの膨れ上がった石膏の仮面にぎゅっと押し込まれたかのようだった。息はぜいぜいと短く、政治家のようなたっぷりとした脂肪のために、立てた上着の襟もおしゃれに見えなかった。ボタンは、一週間前に親切な救世軍の手で服に縫い付けられていたものの、いまではポップコーンのように弾け、あたりの地面に散らばっていた。ぼろぼろの身なりで、裂けたシャツは胸元まで開き、七面鳥でいうところの叉骨があらわになっていたが、粉雪まじりの十一月の風も、ただただ涼しくありがたいだけだった。というのも、スタッフィー・ピートは超豪勢な食事で熱量を摂りすぎていたからだが、それは牡蠣にはじまり、プラムプディングで締めくくられ、あいだには(彼が思ったことには)世界中のすべてのローストターキー、ベイクドポテト、チキンサラダ、カボチャパイ、アイスクリームが振る舞われた。そうしたわけで、彼は腰を下ろし、満腹で、食後の抜け殻感とともに世界を眺めていた。
その食事は予期せぬものだった。彼は五番街のはじまりに近い赤レンガの邸宅の前を歩いていたが、そこに住んでいたのは古代からつづく家柄の、伝統を崇める二人の老婦人だった。彼女たちは拡大するニューヨークの存在すら認めず、感謝祭の日はワシントン・スクエア[iv]のためだけに宣言されると信じていた。この二人の伝統的習慣に、使用人を裏口に立たせ、正午の時が訪れてから最初に現れた空腹のさすらい人を招き入れるよう命じ、その客人にとことんまでご馳走するというものがあった。スタッフィー・ピートは公園に向かう途中にたまたま通りかかったのだが、執事たちは彼を捕らえ、城の慣習を守った。
目の前を真っすぐ十分間眺めたあと、スタッフィー・ピートは少しくらい視野を広げたいと感じた。どうにかこうにか、頭をゆっくり左に動かした。すると目は恐ろしく突き出て、息は切れ、蹄鉄をつけたような短い脚の先はそわそわと砂利をこすって音を立てた。
あの老紳士が四番街を渡って彼のベンチに向かってきたのである。
感謝祭の日になるとこの九年間いつも、老紳士はここに来てベンチに座るスタッフィー・ピートを見つけるのだった。それは老紳士が伝統にしようとしていることだった。感謝祭の日はこの九年間いつも、そこでスタッフィーを見つけ、レストランへ連れていき、彼がたっぷり食べるのを眺めた。イギリスでは無意識にそういうことをする。しかしここは若い国で、九年というのはそう悪くない。老紳士は忠実なアメリカの愛国者で、自らをアメリカの伝統の開拓者だと考えていた。形にするためには、ひとつのことを長く、絶やすことなくつづけなければいけないのだ。たとえば労働者生命保険に毎週十セントを貯めること。あるいは街の清掃をすること。
老紳士は、真っすぐ堂々と、自らが築き上げようとしている制度へ歩を進めた。実際のところ、スタッフィー・ピートへの毎年の施しはまったく国民的なことではなく、イギリスにおけるマグナカルタや朝食のジャムとは性格を異にしていた。しかしこれはステップなのである。まだ中世のようなものなのである。少なくとも、慣習というものがニューヨ――いやいや!――アメリカにも定着しうることを示すものなのだ。
老紳士は痩せて、背が高く、六十代だった。全身黒ずくめで、鼻に乗っからない古風な眼鏡をかけていた。髪は去年よりも白く薄くなっていて、大きくゴツゴツした、曲がった柄の杖にますます頼っているようだった。
この恒例の後援者が現れると、スタッフィーはぜいぜいと息をして身を震わせ、まるでどこかの女性の脂肪過多のパグが毛を逆立てた野良犬に威嚇されたかのようだった。飛んでいけばよかったものの、サントス=デュモン[v]のいかなる技術を駆使しても、彼をベンチから引き離すことはできなかっただろう。二人の老婦人の手下は見事にその役目を果たしたのである。
「ごきげんよう」と老紳士は言った。「この一年の絶え間ない浮き沈みのなかで、変わらず健やかに美しい世界の恵みを享受しておられるようで何よりだ。ただその喜びだけをとっても、感謝祭のこの日は我々のそれぞれに宣言されることだろう。一緒に来ていただけるなら、あなた、私がご馳走する食事で、身体の具合もその精神にふさわしいものにして差し上げよう」
それは老紳士が毎回言うことだった。感謝祭の日はこの九年間いつも。この言葉自体がほとんど制度と化していた。これと比較しうるのは独立宣言くらいだろう。これまではいつも、スタッフィーの耳に音楽のように響いていた。しかしいま、老紳士の顔を見上げる彼は苦しみで泣きだす寸前だった。粉雪が汗ばんだ額に落ちると、ジュージュー音を立てそうだった。一方、老紳士は少し震え、風に背を向けた。
スタッフィーはいつも、どうして老紳士はどこか悲しそうに挨拶をするのかと不思議に思っていた。彼は知らなかったが、それは老紳士が後継ぎとなる息子を欲しがっていたからだった。その息子は、自分がいなくなったあと、この場所に来てくれる――誇りを持ち、力強く、二代目のスタッフィーの前に立って、言う、「父をしのんで」と。そうしてこれは制度となるのだ。
しかし老紳士には身寄りがなかった。公園の東の静かな通りの、古びた旧家のブラウンストーンの邸宅に、部屋を借りて住んでいた。冬は、船旅用トランクほどの小さな温室でフクシアを育てた。春は、イースターのパレードに参加した。夏は、ニュージャージーの丘の農家で過ごし、枝編みの肘掛け椅子に座りながら、いつの日か見つけたいと思っているクサビモンキシタアゲハという蝶について話した。秋は、スタッフィーに食事を施した。それが老紳士の一年だった。
スタッフィー・ピートは三十秒ほど彼を見上げていたが、汗をかき、何もできず、自分を憐れんだ。老紳士の目は与えることの喜びで輝いていた。その顔には年々皺が増えていたものの、小さな黒いネクタイは変わらず粋な蝶結びにされており、リネンのシャツは美しく白く、グレーの口髭は先が優雅にカールしていた。そのうちスタッフィーは、鍋で煮えるエンドウ豆のようにぶくっと音を立てた。言葉が発せられたはずだった。老紳士はこれまでに九回聞いてきたとおり、それをスタッフィーの承諾の決まり文句にしかるべく変換した。
「どうもありがとうございやす。一緒に行きやす、とてもありがたいことです。すごく腹ペコなんです」
食べ過ぎで意識を喪失していても、スタッフィーは、自分は制度の礎なのだという信念を忘れなかった。この感謝祭の食欲は彼自身のものではなかった。それは、慣習を確立してきたゆえの神聖な権利によって、実際の法律関係はともかく、真っ先に行動したこの親切な老紳士に属するものだった。たしかに、アメリカは自由だ。しかし、伝統を築くためには、だれかが循環節――循環する少数――にならなければいけない。英雄はだれもが鋼と金の英雄というわけではない。見よ、この鉄や銀メッキやブリキの武器しか振るえぬ者を。
老紳士は毎年の被扶養者を連れて南のほうにあるレストランへ、いつもご馳走が供されるテーブルへ向かった。彼らの顔は知られていた。
「おやおや、いつものじいさまがやって来た」とウェイターは言った。「感謝祭のたびに同じ浮浪者におごってやるんですな」
老紳士はテーブルをはさんで向かい合って座り、未来の古き良き伝統の礎石を前に、燻された真珠のように輝いていた。ウェイターたちはテーブルに休日のご馳走を積み上げていった――そしてスタッフィーは、空腹なのだと勘違いされるため息とともに、ナイフとフォークを持ち上げ、自ら不滅の月経冠を彫った。
立ち並ぶ敵を相手に、ここまで勇敢に戦った英雄はいない。七面鳥、骨付き肉、スープ、野菜、パイが、出されると同時に彼の前から消えていった。レストランに入った時点でこれ以上ないほど満腹で、料理のにおいをかぐと紳士としての名誉を失いそうだったが、真の騎士のように盛り返した。老紳士の顔に慈しみに満ちた幸せの表情が見え――フクシアやクサビモンキシタアゲハからも生まれない幸せの表情だ――それが褪せていくのを見るのは忍びなかった。
一時間後、スタッフィーは椅子にもたれかかった。勝利を収めたのである。
「ほんとうにありがとうございやす」彼はよく漏れる蒸気管のようにぷっぷっと音を立てた。「たっぷりの食事をほんとうにありがとうございやす」
それからうつろな目で重そうに立ち上がり、調理場へ向けて歩き出した。ウェイターが彼をこまのようにくるりと回して、ドアのほうへ向けた。老紳士は一ドル三十セントの小銭を丁寧に数え上げ、五セント硬貨三枚をウェイターのために置いていった。
彼らは例年どおりドアのところで別れ、老紳士は南へ、スタッフィーは北へ向かった。
最初の角でスタッフィーは曲がり、一分ほど立ち止まった。それから羽を膨らませるフクロウのようにボロ服を膨らませ、日射病の馬のように歩道に倒れた。
救急車が到着すると、若い外科医と運転手は彼の重さをやんわり罵った。ウイスキーのにおいがしないのだから警察に突き出す道理もなく、スタッフィーと二食のディナーは病院へ行った。そこで医者たちは彼をベッドの上で大の字にさせ、妙な病気にかかっていないか検査しはじめた。何か問題が見つかるかもしれないと期待して、むき出しの鋭利な金属を当てた。
そしてなんと!一時間後に別の救急車があの老紳士を運んできた。医者たちは彼を別のベッドに寝かせ、虫垂炎だろうと話した。十分に支払い能力がありそうだったからだ。
しかしまもなく、若い医者の一人が、目がお気に入りの若いナースの一人をつかまえ、立ち止まってこの件について話した。
「あの感じのいい老紳士だけど」彼は言った。「まさか餓死寸前だったなんて思わないよな。立派な旧家の出だよ、きっと。もう三日も何も食べてなかったそうなんだ」
[i] ピューリタンがアメリカに上陸して最初に踏んだとされる岩。鶏の品種名でもある。
[ii] ニュージャージー州のこと。「クランベリーの沼」も、クランベリー(感謝祭の日は、七面鳥をクランベリーソースとともに食べる)の生産が盛んな同州を指している。「東にある大都市」はニューヨーク市。
[iii] stuffyは満腹状態、あるいは詰め物料理を連想させる。詰め物をした七面鳥は感謝祭の定番料理である。
[iv] 当時、ニューヨークでは大規模な開発が進み、街の範囲が拡大していたが、ワシントン・スクエア周辺は古くからの地区である。
[v] 二十世紀初めにヨーロッパで初めて飛行機を開発した飛行家、発明家。