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木曜 16:30~18:00
金曜 18:00〜21:30?
ハーレム。
フィンク夫人はアパートの一階下のキャシディ夫人の部屋に立ち寄っている。
「見事なもんでしょ」とキャシディ夫人。
自分の顔を誇らしげに、仲よしのフィンク夫人に見せた。片目はほとんど開いておらず、そのまわりには大きな、緑がかった紫色のあざがある。唇は切れて少し出血していて、首の両側には赤く指の跡。
黒人街になる前のハーレム
A Harlem Tragedyは新潮文庫からも邦訳が出ているが、その初版と改版では邦題が違っている(訳者はどちらも大久保康雄)。1953年刊の初版は「黒人街の悲劇」で、69年刊の改版は「ハーレムの悲劇」。「ニューヨーク市マンハッタン北東部にある黒人住宅地区」という訳注付きではあるが、69年ごろには日本でもハーレムという地名が一般的になったということか。
現在では、ハーレムといえば多くの人が黒人の街を思い浮かべるだろう。1990年代以降は再開発が進み、少し事情が変わってきた(ビル・クリントンのオフィスがつくられたりもした)が、今もやはり黒人が多く住んでいるし、イメージは根強い。
だが、実のところ、ハーレム=黒人という認識が生まれたのは1920年ごろである。17世紀にオランダ人が入植して以来、マンハッタン北部のこの地域は約200年にわたってのどかな農村だった。それが19世紀前半から100年ほどのあいだに、土地の疲弊による衰退を経て、上中流階級の住宅街、黒人文化の中心地と変化を遂げていく。その歴史はニューヨークのなかでも独特なものだ。
ハーレムがそのような歴史をたどることになった要因のひとつは、マンハッタン中心部からの距離にある。今でこそダウンタウンから地下鉄で数十分だが、交通手段のなかった農村時代はまさに人里離れた奥地という風情だったようだ。19世紀半ばにハーレム鉄道が開通してからも、都市に住む人が田舎の隠れ家に行くように訪れていた。
こうした都市近郊の地域は交通手段の発達によって変貌するが、ハーレムもその例に漏れない。最初の転換点が訪れたのは、1878~81年である。この時期に高架鉄道の3路線がハーレムの129丁目まで開通した。そこで、投機家は土地の売買を推し進め、辺りには富裕層向けの住宅が立ち並びはじめる。ニューヨーク市の人口が急増していたこともあり、ハーレムはマンハッタン最初の郊外住宅街として栄えるようになったのである。
この最初の不動産ブームは、景気の後退を受けて1893年にいったん鎮まるが、景気が回復した2年後には再び活発になる。そして1900年に地下鉄の建設がはじまると、ますます熱気を帯び、新しい住宅が次々と空地を埋めていく。この第2次ブームではアパートが多く建てられ、ロウアー・イースト・サイドで暮らしていた移民など、富裕層以外の人々も移り住んでくるようになった。A Harlem Tragedyのフィンク夫妻、キャシディ夫妻は、こうした流れのなかでハーレムにやって来たのだろう。
しかし引っ越してきた彼らは、まもなくこの地の新たな変動を見ることになる。第2次ブームでは、短い期間にあまりに多くの住居が建てられた。結果、1904~05年ごろになると供給過多が明らかになり、不動産バブルは崩壊する。そしてそこに目をつけたのが、住む場所に恵まれていなかった黒人たちだ。ハーレムには以前からある程度の数の黒人が住んではいたが、この時期に急激な増加がはじまった。南部諸州からの流入もあって、その動きは1910年代、20年代にますます加速していく。そして、ついに米国で最も有名な黒人街となったハーレムは、ハーレム・ルネッサンスの時代を迎えるのである。
参考文献・サイト
Osofsky, Gilbert. Harlem: The Making of a Ghetto. 1966. HarperCollins Publishers: Ivan R. Dee, Inc., 1996.
http://c250.columbia.edu/c250_celebrates/harlem_history/(Columbia University - C250 Celebrates Harlem History)
(菅野楽章)