戸山翻訳農場

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Tenth of December by George Saunders             岡野桂

ジョージ・ソウンダース (George Saunders)

Tenth of December 『1210日

 

 ジョージ・ソウンダースほど、日本で不遇なアメリカ人作家も少ないだろう。しかも、その原因が小説の内容ではなく、彼のファミリーネームにあるのだから、頭を抱えてしまう。ソウンダースの翻訳はこれまで3冊上梓されている。短編集『パストラリア』と、絵本『フィリップ村のとてもしつこいガッパーども』(絵本作家レイン・スミスとの共作)、そして、中編小説『短くて恐ろしいフィルの時代』。先の2冊はジョージ・ソウンダース名義、最後のがジョージ・ソーンダーズ名義である。

 アメリカ合衆国で彼はペンネームを使い分けているのかといえば、そんな事実はまったくない。どうやら “Saunders” というファミリーネームに日本語表記ができない微妙な音が含まれているようなのだ。カタカナに変換するとき、「ソウンダース」が近いのか、「ソーンダーズ」のほうが似ているのか、どうにも迷ってしまうため、カタカナ表記が揺らいでいるのだろう。そんな事情もあって、彼の本を検索するときには名前をアルファベットで入力しなければ、翻訳作品が全部リストアップされない。だがそうすると原書まで引っかかってしまうのだから、日本人読者泣かせの名前である。2012年に出版された、岸本佐知子さん訳の『短くて恐ろしいフィルの時代』は「ソーンダーズ」と表記されているので、今後こちらで統一されていくのかもしれない。

 ジョージ・ソウンダースは1958年生まれ、2013年で55歳になる。 New Yorker の「40歳以下のすごい作家たち」に選ばれていた。長らく若手人気作家というイメージがあったけれど、いまではもう押しもおされぬ実力派ベストセラー作家である。小説家業の傍ら、ニューヨーク州のシラキュース大学のクリエイティブ・ライティングコースと呼ばれる、作家を養成する大学院の講座で教鞭をとっている。

 ソウンダースは「O・ヘンリー賞」を受賞した短篇の名手である。彼の名を全米に知らしめた1作目『落ち目になった南北戦争ランド』、続く『パストラリア』、In Persuasion Nation はどれも短篇集であり、「作家のなかの作家」といった高い評価を得ている。

 今回の書評で取り上げる四作めの短篇集 Tenth of December 20131月、それも年明けに発売されたのだが、すぐに「2013年最高の1冊」という感想が、インターネットのメディア、SNSTwitter などで溢れ、ブックランキングの上位に長期間居座り続けた。201313日付けの「ニューヨーク・タイムズ」紙が「ジョージ・ソウンダースは、今年あなたが読むうちで最もすばらしい本を書いた」という記事を掲載したほどである。

 しかし、絶大なる人気とは裏腹に、ソウンダースの作品は難解だ。それも圧倒的な難しさである。言語的な障壁がないアメリカ合衆国の英語話者の知識人でさえ、書評サイトやブログなどで「何度も読み返して、意味がやっとわかってきた」や「読み直しているうちに、この作品が好きになってきた」と漏らすほどだ。

 ソウンダースが紡ぐ言葉には、刃が鋭過ぎて、どこを切られたのか、しばらく気づかないほどシニカルな風刺やユーモアがつまっている。例えば、子ども向けの絵本『フィリップ村のとてもしつこいガッパーども』は、ヤギを疲弊させる生物ガッパーに悩む村の物語である。その村には3家族が住んでいて、あるときガッパーどもは1軒の家を集中攻撃する作戦を立てる。狙われた家は父子家庭で、父は、妻を亡くした過去から立ち直れないままで頼りにならず、少女は残りの2家族に助けを請うのだが、断られてしまう。援助できない理由がこうだ。「あなたが大変な目にあっていることには心より同情いたします。けれど、いいづらいのですが、自分の人生の責任は自分でとったほうがいいとは思いませんか? わたしたちのようにヤギからガッパーを排除できたら、あなたもきっと努力した、と思えることでしょう。(…)わたしたちのほうが努力したといいたいわけではありません。(…)[青山南 訳・いそっぷ社]より引用」と近隣住民は言い、自分たちの家を、少女の家から遠ざけるのだ。困り果てた少女は、町でヤギを売り、その資金を元に独りで漁業を始める。ガッパーどもは、攻撃対象を別の家に変える。このあとも物語は続くのだが、この前半部分だけでも、ソウンダースが何を想って作品世界を描いているのか、的確に捉えるのは、大人だって難しい。

 

 Tenth of December には、「ニューヨーカー」や「ハンパーズ・マガジン」で掲載された短篇小説を中心に10作品が収められている。どれもこれも、世界を斜め後ろから見ているようなソウンダースらしい作品だ。幕が降りても、語られた不思議なものや変わったものの正体が、わからないまま宙吊り状態されてしまう感覚が後を引く。物語としては完結しているはずなのに、「あれは何だったのか」という疑問が残されるのだ。説明されないことは、登場人物と一緒に戸惑わなければならないし、自分自身で悩み、答えを出さなければならないのかもしれない。そういう意味でもやはり難解な小説であり、同時に、ほかでは味わえない奇妙な読書体験させてくれる味わい深い作品ばかりなのだ。

 それでは、粒ぞろいの短篇のなかでもおすすめをいくつか取りあげよう。

 

 “Exhortation” は会社の従業員に向けたメッセージ形式の作品である。なんの会社なのか、どんな業務をしているのか、はっきりしたことは明らかにされない。それにも関わらず、ブラック企業であることは、ひしひしと伝わってくるのだ。

 「棚をきれいにしなければならないのだ」、「従業員諸君は、鯨の死骸みたいに重い物を平台に釣り上げる仕事を任されている」といった業務の断片的な情報や、「心をポジティブに保っていれば、棚の清掃を早く綺麗に仕上げることができる。そのうえ、給料をもらうという目的もクリアできるのだ。」といったことが語られていく。さらに、仕事の成績は常にモニタリングされているし、業績が悪ければ代わりに働く人間は大勢いるという脅しが、言葉の端々に見え隠れする。

 「我々の業務をいちいち、良い・悪い・モラルとは無関係といった極端な選択肢によって吟味することをやめるように言っているのだ。(…)我々はもう道を歩み始めている(…)神経質な勘ぐりによって進むべき道を妨げ、仕事を滞らせることはいわば自殺行為ではないのかね。」と上司は主張する。ポジティブに働くことで効率が上がり、一生懸命協力しあうことで喜びも感じられることを述べる一方で、盲目的に働けばよいのだ、という暗い側面が浮かび上がってくる。ついには、記録的な業績を上げた従業員アンディが心を病んでしまったことが、ほのめかされる。

 そして、メモの語り口や内容は突拍子もなくてユーモラスだけれども、想像力を働かせると、恐ろしいほどのリアリティを帯びていることに気づく。「棚」を「売上げ」や「契約数」など様々な「業務」に置き換えることができるはずである。

 そして、ソウンダースの真骨頂は、この短編小説である「メモ」の存在自体が、他人事でくだらない文章、という点にある。例えるなら、まったく誰も真剣に読んでいないのにも関わらず、義務的に送られてくる回覧板のようなものなのだ。この文字通り受け取ればゾッとするメモを読む従業員たちは、笑い飛ばして、勤務態度を改めることも、おそらくはないだろう。前短篇集の表題作「パストラリア」の語り手と同様に漫然と働き続けるに違いない。「パストラリア」では観客として作品に位置づけられていた読者を、 “Exhortation” では従業員として作品の内部に巻き込む仕組みになっている。メモがあたかも自分に宛てられているかのような印象を読者は受けるのである。このような仕掛けが Tenth of Decemberの短篇にはちりばめられている。

 

  “Puppy” では2つの家族について語られる。タイトルが示唆するとおり、「動物」をめぐる物語だ。母親のマリーは、秋のトウモロコシ畑にかかる太陽の輝きを目にすると、幽霊がでそうな家を連想してしまう。ただ、この家は実際には存在しないのだという。子どもたちと一緒に秋の太陽を眺めているときに、マリーは思う。「たぶん子どもたちは、この瞬くような架空の光景を頭の中で見ていないのだ。あるいは、見えている刹那的な架空の光景は、自分が頭の中で見ているのと完全に違っているのかもしれない」このフレーズが1つのキーワードとなる。2つの家庭において、たしかに母親たちは息子を愛している。しかしどこか、首を傾げてしまうような愛し方なのだ。そんな母親の姿を目のあたりにして、読者は何を連想するのだろうか。

 引きこもりがちな息子をもつマリーは、任天堂のゲーム機を買ってやり、好きなように遊ばせている。まるで子犬においしい餌をたっぷりと与えるように。他方、キャリーの息子は、矢の如く道路に飛びだしてしまう衝動を抱えている。やはり具体的な病名や障害など理由は明らかにされない。しかし「キャリー、この子をちゃんと監視してないと、しまいには死んじまうよ。薬は飲ませているのかい?」と注意されるほどだ。まるで躾がうまくいかない子犬をコントロールするように、キャリーは薬を与え、時には物理的な手段(この短篇の肝なので伏せておく)をもちいている。どちらの母親も息子を愛しているからこそ、このようなことをしているのである。

 キャリーが犬を売りに出しているさなか、マリーは娘のために買おうとやってくる。マリーは、キャリーが息子をどのように扱っているかを目撃しまうのだ。

 

 三作めの “Home” は、シルバースター勲章を授与された軍人ミッキーが戦地から実家へ戻ってくるところから始まる。昔を思い出すミッキーはまず、教会で働いているのに口が悪い母親が、無職の噓つき男ハリスと同棲していることに驚く。そして帰宅したその日に、家賃滞納が理由で自宅が差し押さえられる不幸が続く。行く当てがないミッキーは、金持ちと結婚した妹、新しい家庭を築いている元妻、命を捧げた国や社会から拒絶されてしまう。

 勲章の価値とは何なのだろうか。子どもたちがプラスチック製のドッグタグを販売する店が登場する。「MiiVOXmax」と「MiiVOXmin」と刻まれているのだが、何を意味するのか判然としない。高価な宝石みたいにして店員の少年は扱っているが、その様子は滑稽とも受け取れる描写になっている。家財取り立て人に向かって、息子であるミッキーの勲章を自慢する母親の姿と重なって見える。作品なかで、ミッキーに繰り返しかけられる「お勤めご苦労様でした」という形式的な労いのフレーズは、感謝や同情がまるで感じられない。むしろ、「あっちで一番嫌だったことはなんだ?」と無神経に問いかけてくるハリスのほうが、よほど一人の人間としてミッキーに接している印象を受ける。何度も繰り返される無機質な謝辞が、戦争や退役軍人に対する感情がいかに平板なものかを前景化させる。国の為に戦ったという軍人たちの誇りに、形式的な敬意しか払われない。価値があると公に認められている軍人の献身に対して、実際には関心をもつものはいないし、経済的な価値に換算するものもいない。宝石と同様に誰もが価値があると思っているのに、国内で平和に暮らしている人間たちは無関心なのである。

 アメリカ合衆国で幸せに暮らす人々を眺めて、ミッキーは戦場で人を殺してきたことについて悩む。あれは当たり前のことだったのか。責任は誰にあるのか。そのような戦争のトラウマからなのか、ミッキーは衝動の自制が効かなくなることがある。気に入らない人間を投げ飛ばしたり、苛立って瓶を投げたりしてしまうのだ。このような深刻なはずのシーンが笑えてしまうところに、ソウンダースの繊細な言葉の選び方とシニカルさが見て取れる。

 疎外感に苛まれるミッキーはどうするか。トラウマを抱えた主人公にありがちな自分探しの旅に出発するようなことはしない。ただそのまま生きるのだ。他の短篇の語り手たちと同じようにミッキーは、現状を受け入れてしまうだろう。「自分を変える力」はどこかに落ちているものでもないし、簡単に手に入るものでもない。この点が、ソンダースの突拍子もなくて空想的と思える物語を、現実に引き止めている鎖なのだ。普通の人間は、変わろうとしても、すぐ何かに成れるわけではない。そんな当たり前がしっかりと残されているからこそ、現実からちょっとズレた奇妙なストーリーが活きてくるのだ。

 この本に収められたどの短篇も、明確な答えや結末を提示してくれない。物語自体は笑えるし、引き込まれるのだが、期待するようなオチを用意してはくれないのだ。ソウンダースはアメリカ合衆国における敗者や弱者の視点から日常を描いている、と評されることがある。彼らは「小説の主人公」らしくないという点では、おそらく敗者であり弱者なのかもしれない。しかしそんな大仰な話ではなく、ただソウンダースの小説は読者に参加を求めているだけなのだ。自分の頭で考えて、想像して、答えをださなければならない。だから、成功者や強者の視点からでも充分に読み解ける。読み返せばその分だけ応えてくれるだけの深みがある。深海の迷路のようなソウンダースの短篇集をぜひ手にとって、自分なりの読み方に挑戦してほしい。