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「どん底まで落ちて初めて生きている意味がわかる」
登場人物たちの運命はことごとく悲劇的で、毎回のごとくいっそ笑えるほど過酷な目にあう。それでも彼らはどこかクールで、最後には不思議と爽やかな読後感をもたらしてくれる。それが、パラニュークの描く物語の真骨頂である。
チャック・パラニュークは1996年に『ファイト・クラブ』で衝撃のデビューを飾って以来、肉体的な感覚に訴える作風で、世界中にカルト的な崇拝者を生みだしたベストセラー作家だ。何しろファンサイトの名前からして「カルト」である。作品が刺激的なあまり、朗読会で失神するファンが出たことすらあるらしい。(ちなみにそのとき朗読された短編は「はらわた--聖ガット・フリー語る」という題で邦訳されている。読んでみると失神する理由がよくわかる)
日本では2005年の『ララバイ』以降発刊が途絶えてしまい、現在日本語で読めるパラニュークの本はわずか5冊。映画化された『ファイト・クラブ』や『チョーク!』も現在は絶版となっていて寂しいかぎりだが、アメリカでは今なお精力的に作品が発表されている。そんなパラニュークの14作目の小説で、「どん底まで落ちて初めて生きている意味がわかる」という『ファイト・クラブ』から通底する思想をよりいっそう寓話的に突き詰めたのが本作Damnedである。題名からして内容のひどさが察せられるように、本作ではこれ以上落ちることのできないどん底中のどん底、すなわち地獄から物語が始まる。
主人公の名前はマディスン・スペンサー。パラニュークの作品では珍しく少女の語り手である。若干13歳にして地獄に落ちるだけあって一筋縄ではいかない性格をしており、思春期らしく徹底的に皮肉屋で自虐的、語りのなかにも常に「ええ、私はまだ13歳で、死んでいて、そのうえデブだけど~」といった前置きが挟まれる。パラニュークの小説では印象的にリフレインされるフレーズというのがお家芸になっていて、『ファイト・クラブ』なら「僕はジャックの○○です」、『チョーク!』なら「○○はふさわしい言葉ではないが、頭に浮かぶ一つめの言葉だ」という文章が作中に何度も何度も繰り返し出てくる。Damnedでは「ええ、わたしは○○だけど、○○って言葉ぐらい知ってるわ」「ああ、ずるい話だけど」などがこれに相当する。この語り口自体が「地獄に落ちた思春期の少女の自分語り」という何とも言えない状況とマッチして、読者に物語への没入を促してくれる。
マディスンが地獄行きになった原因は、本人いわくマリファナの過剰摂取らしい。彼女も初めは独房のようなところで大人しく生前の回顧に浸っていたのだけれど、そのうち周囲に自分と似たような年恰好の人間が揃っているということに気付く。彼らはジョックス・チアリーダー・ナード・パンクロッカーとスクールカーストの典型のような姿をしていて、マディスンはこの仲間たちに引きずられる形で独房を脱出して地獄の荒野へと繰り出すことになる。
パラニュークの描く地獄はどんなところだろうか。まずは衛生的に最低の世界といえる。審判の日まで清潔でいたいのなら壁や格子には絶対に触ってはいけないし、何故か地面に散らばっているお菓子も絶対に食べてはいけない。そして檻の外に出れば、そこにはさらにうんざりするような地理が広がっている。マディスンが仲間たちと最初に目指すのは、「浪費された精液の大洋」という地獄スポットである。地獄通の仲間が語るところによれば、地球上で無為に流されたすべての血や体液、路上に吐き捨てられた唾や痰などが最終的にはすべて地獄に辿りついて、海や湖になるまで溜まっていくらしい。
「VHSとインターネットの普及によって」アーチャーは言う。「この海洋の水位は記録的な速度で上昇している」
(中略)
地獄では、地球の温暖化に相当する作用をポルノが引き起こしている。
人を嫌な気持ちにさせるためだけに存在しているような場所である。
これらの地理に加えて地獄の大地には神話に基づくさまざまな悪魔たちが徘徊しており、脱走者は見つかればもちろんタダでは済まない。地獄を冒険しながら、繰り返し差し込まれる自分語りによってマディスンの生前が明らかになっていくのが前半の見どころだ。パソコンから監視カメラにアクセスして他人の生活を覗くのが趣味の母親に、やたら教訓を吐きたがる父親など、この親にしてこの子あり、といった個性的な両親のエピソードもある。
Damnedの特徴として、この小説が他作品へのオマージュに満ちているという点も挙げられる。主人公が各章の冒頭で「サタンさま、いらっしゃいますか?わたしです、マディスンです」と悪魔に自分の思いを打ち明けるのはジュディ・ブルームの『神さま、わたしマーガレットです』の地獄版パロディだし、別々のスクールカーストに属する子どもたちが一緒になって冒険するのは、ジョン・ヒューズ監督の青春映画「ブレックファスト・クラブ」のオマージュだ。そのほか、地獄に出てくる悪魔たちも世界各国の神話やおとぎ話からの引用で、グロテスクな悪魔が現れるたびに悪魔オタクによるペダンティックな蘊蓄が披露される。また、死後の世界ということで、歴史上の人物が堂々と出てきて驚かされたりもする。
パラニュークの描く地獄と地球は、実は回線を通して繋がっている。たとえば、インターネットのサイトに出てくるポルノ広告の写真に写っているモデル。または、自宅にセールスの電話をかけてくる、決して名乗ろうとしない業者。本当に世界に存在しているのかよくわからないこれらの人々は、たいてい地獄にいる人間なのだそうだ。地獄にも仕事はある。エロサイトの実に85%は地獄が管理しているらしい。電話はパラニューク作品においてたびたび重要な役割を果たすガジェットで、今回もマディスンがテレホンバンキングの仕事に就くという形で登場することになる。21世紀になって飛び交う量が爆発的に増大した情報の空間には、こうした都市伝説めいた空想が紛れこむ余白がある。そこをうまく使ってファンタジーを生みだしているのもまた、本作の魅力だ。地獄で働く彼女たちは、死を忘れたまま生きている現代人を、死後の世界から嘲笑っている。
物語が進むにつれて、マディスンの暮らしは一見、死んでからのほうが生前より充実していくようになる。そしてそれがいっそう彼女を悩ませる。目に見えるものすべてが偽りの世界を描くのがパラニュークの作劇だ。語り手の語る言葉すら偽りに満ちていて、しかも語り手自身がそのことに気付いていない。マディスンは地獄に落ちてすべての希望を諦めているような態度を取りながら、結局は生前の失敗に未練があり、まだ希望を捨てきれていないという自分の本心を認めていく。希望を持つことは本来悪いことではないけれど、そこが地獄となれば話は別だ。何故なら、まさにこの希望こそが、彼女のいる場所を地獄たらしめるからである。
地獄を地獄のように感じさせるものはただひとつ。わたしは自分に言い聞かせる。それは、ここが天国のようであるべきだ、というわたしたちの期待だ。
もしも地獄が古代ギリシャの伝承通りの追憶と後悔の場所なら、わたしはそれらの労役を徐々に達成しつつある。
すべての希望があらかじめ失われている場所が地獄で、そこにあってなお希望を求めることは、手に入らないものへの中毒的な欲望でしかない。パラニュークは過去の作品で消費中毒やセックス中毒などさまざまな中毒者を描いてきたが、本作で描かれるのは「生きる希望中毒」なのである。何もかもが滅茶苦茶な死後の世界に苦しみながら、マディスンは希望を捨てられない自分を受けいれていく。
サタンさま、いらっしゃいますか?わたしです、マディスンです。紛らわしすぎるふうに聞こえないといいのだけれど、私はここに、すべての希望を捨てようという考えを永遠に捨て去ります。正直なところ、諦め続けることを諦めたのです。
どこにでもいる、思春期の少女の自分語りin地獄。その自意識は過剰すぎるほど過剰だけれど、だからこそ自分に嘘はつかない。希望というもののやっかいさと、それでもそれを持ち続けることの素晴らしさを、本作の主人公であるマディスンは文字通り地獄の底から教えてくれる。
パラニュークは作品へのインタビューで、「主人公が13歳の少女なのは何故か」という質問に対して以下のように答えている。
思春期に入る前の人生を覚えているかい?男性器と女性器が戦うことで子どもが産まれるなんて、馬鹿らしくてありえないことのように思っていた。性教育の授業は、スネーク・ハンドリング(蛇に手で触れるための技術)だとかストリキニーネの飲み方を山奥の教会で習うくらい関係ないことのように見えた。それが思春期にぶち当たることによって、一夜にしてすべての態度が変わってしまうんだ。ぼくが死について考えていることもこれと同じさ。今はまだ馬鹿馬鹿しく思えるけれど、しかるべき瞬間からは、まだ生きているぼくらには認識できない方法で、すべてが適切で素晴らしいものに思えてくることだろう。語り手のマディスン・スペンサーを13歳にしたのはこれが理由だ(続篇の回想では彼女の9歳の姿も描かれる)。彼女と成人向けのセックスとの関係性は、ぼくたちが死について総合的に理解していることを確認するための、ぼくなりのメタファーなんだ。
文学にとっても性と死は常に切り離せない問題で、だからこそ、この二つの問いにどこまでも真摯に向き合うパラニュークの小説には、単なるエンターテイメントの枠に留まらない熱と魔力が宿るのだろう。
Damnedには続編が構想されており、Doomedという題名の新刊がこの2013年の秋に発売される予定だとか。あらすじをみるに、ゴーストとなったマディスンが満を持して地球に帰還する話…であるらしい。ファンサイトによれば作者の告知には最後に「あ、これ言うの忘れてたけど次の本では世界が終わるんで」とあるそうで、ファンとしては期待の高まるかぎりである。