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「This is Water」は2005年にアメリカポストモダン文学の旗手、デイヴィッド・フォスター・ウォレスがケニヨン大学で行った卒業スピーチを書籍化したもの。1962年生まれの彼は鬱を煩っており、2008年に自殺。「This is Water」は彼が行った最初で最後のスピーチとなった。
さて、なぜ今この本を紹介するのか。それは2013年5月上旬に、アメリカのThe Glossary(@SeeTheGlossary)というわずか三名の小さな広告会社がスピーチをもとに映像作品を作成、二週間足らずで400万回以上再生され大きな反響を呼んだからである。The Glossaryは、ある商品を題材にしたクールな映像を作り、ネット上で流行らせて宣伝を手助けする会社で、その最新作がウォレスの「This is Water」だった。本来ならここでこの動画を紹介したいところだが、The Glossaryは5月22日、こんなツイートをしている。
「At the request of the David Foster Literary Trust, we have removed “This is Water” from our channels.」(David Foster Literary Trust(ウォレスの著作権利団体)の要請により、“This is Water”をサイトから削除しました)。
普段この会社はクライアントの求めにより動画を作っているのだが、「This is Water」に関してはウォレスのスピーチに感動した社員の熱意により、費用も持ち出し、100%善意によって作成された動画だったのだという。そしてお金もかけられないことから、権利団体に使用許可をとる前に動画を作成、発表したのだそう。許可はとらなかったものの、この動画を作ってスピーチを広めることで使用の「赦し」を得たかったと当人たちは言っている。この動画に心を動かされた者の一人としては、使用の許可が降りなかったのは残念でならない! そんな経緯があり、ここに動画を載せはしないが、今でもYouTubeに残っていて、Googleでも「This is Water Wallace Dailymotion」などで検索すればトップに出てくる。The Glossaryはこの動画を作成したことによりお金を儲けたことは一切なく、ただただこのスピーチを広めたい、その一心だったと言っている。この動画(英語)を多くの人に見てもらいたい気持ちをぐっとこらえ、スピーチ内容の紹介に専念しようと思う (YouTubeではスピーチ全文の音声も聞くことができる)。
ウォレスがスピーチを行ったケニヨン大学はいわゆる「リベラル・アーツ」の大学。日本でいう教養学部の源流となった、様々な分野の学問を学び、それらを総合して「自分の頭で考える」ことを目的とした教育が行われる私立の大学だ。そんな大学の卒業式の場で、彼は「ものを考える」とは本当はどういうことなのか、をテーマにしたスピーチを行った。副題は「めでたい日に贈る思いやりのある生活についてのいくつかの考え」。思い切って要約してしまえば、大事なのは「何を考え、何を考えないかを自分で選択する」こと。そしてそういう選択が可能なのだと気づくこと。そうすれば「思いやりのある生活」につながっていく。そのスピーチはこんな風に始まる。
「二匹の若い金魚が泳いでいると、年寄りの金魚とすれ違う。年寄りの金魚は会釈をして若者たちにこう言う。『おはよう、少年たち。水の調子はどうだい?』」
「二匹の若い金魚が泳ぎ続けていると、片方が思い出したようにもう片方を向いてこう訊ねる。『水って一体なんなんだ?』」
「ここで私は知恵のある年寄りの金魚として、君たち若い金魚に水とはなにか説明したいわけじゃない。安心してほしい。私は知恵のある年寄りの金魚じゃない」
「この金魚の話のポイントは、最も自明で、ありふれた、重要な真実というのは概して、そのことに気づいたり論じたりするのが最も難しいものであるということだ」
言葉にすると陳腐な真実。金魚は水がないと生きていけない。でも金魚は水があることには気づかない。これは人間も同じで、生きる上で重要なことは、大人の日々の生活のなかでほとんど忘れ去られていくとウォレスは言う。そしてこの話をリベラル・アーツの大学でする意味にも触れる。
信仰に厚い男と、無神論者の男がいる。無神論者の男は一ヶ月前、吹雪で遭難し、神に祈る。「神様、もしいればですが、私は吹雪のなか遭難してしまいました。あなたが助けてくれなければ、死んでしまいます!」。そして今、彼は信仰に厚い男と一緒にバーで酒を飲んでいる。「ってことはさ、今はもう信じてるんじゃないの? 結局、君は今ここにいて、生きてるんだから」。無神論者は言う。「いや、ちがうよ、結局そのあと二人のエスキモーが偶然通りかかって、キャンプに戻る道を教えてくれたんだ」。
この話を「リベラル・アーツ」的に分析するとこうなるだろう。
「全く同じ経験でも、人が違えば結論も全く違ったものになる。なぜかといえば、人はそれぞれの信仰から思考を形作り、同じ経験からそれぞれ違った意味を作り上げるから」。
リベラル・アーツの分析では、無神論者と信仰に厚い男の違いは、生まれつきの、初期設定によるものだと考えられがちである。しかし大事なのは、その違いを認めることではなく、そこには自分の考えを当然のことと見なす、ある種の傲慢さがあると気づくことだとウォレスは言う。気づいていないうちは、「監獄に入れられたことに気づいていない囚人のようなもの」なのだと。
だから「自分の頭で考える」とは、傲慢さをちょっと抑えて、自分が当たり前だと思っていることを疑うこと。でも、「私はこのことに気づくのにだいぶ苦労した。おそらくみなさんも苦労するだろう」。
違いを違いのまま受け止めるのではなく、一旦立ち止まって考えてみると、それは実は「自分の脳みそに閉じ込められた狭い考え」だったと気づくことがある。そしてそれに気づくと、他人への思いやりのようなものが芽生えてくる。でも、それに気づくことはとても難しい。リベラル・アーツの学生に向けて、ウォレスは語りかける。
そしてそれは「明けても暮れても」働いている社会人にとってはもっと難しいことだろう。世界を自分中心に考えてしまうだろう、とウォレスは言う。車の渋滞でイライラしたり、レジに並んでいてイライラしたり。
でも、「いま割り込んできた車は、助手席に怪我か病気の小さな子供をのせた父親が運転しているかもしれない、彼は早く病院に着こうと、僕なんかよりもはるかに、本当の意味で急いでいるかもしない —— 実は僕が(、、)彼の道に割り込んでいるのかもしれない」し、レジの前にいて「子供を叱りつけている、太った、死んだ目をした、暑苦しいおばさんも、もしかしたら普段はこうではなく、病気で死に行く夫を三日三晩手を握り見守っていたのかもしれない」。
こういうことはあまりありそうにない。しかし、あり得ないとも言えない。問題は、何をどう考えるかは自分で選択できると気づくこと。傲慢さを抑え、自分中心の考えを疑ってみると、他人への思いやりが生まれてくる。だから「本当の教育がもたらす自由とは、つねに思考を調整するすべを身につけること、つまり、何を考えるべきで何を考えるべきでないか、意識的に選択できるようになるということだ」。
「あらゆる自由の中で、もっともかけがえのない自由。それは成功、達成、力の誇示に満ちた世界ではめったに語られない自由。そしてその自由は、注意と自覚と規律と努力と、他人を気遣う心と、奉仕の精神、そうしたものが繰り返し繰り返し、地味な形で際限なく、毎日必要とされる。それが真の自由。それが「ものを考える」ということだ」。
無意識に自分中心の考えに陥っていたことに気づき(これは水です)、意識的に努力してどう考えるか選択していくこと。これから社会人になるリベラル・アーツの学生に向けて、ウォレスはそんなメッセージを贈ってスピーチを締めくくっている。
「本当の教育の本当の価値、それは成績や学歴には関係なく、全ては単純な気づきにかかっている ——何が本当で何が大事かに気づくこと。普段忘れがちな、だけど繰り返し覚えておかなければならないこと」
「これは水です」
「これは水です」
「それはほんとうに難しいことだ —— 大人らしく、自覚的に、「明けても暮れても」生きていくということは」
「だから、こういった決まり文句もまた真実。
教育とは一生をかけた事業で、それを始めるのは —— 今なのだ」
「みなさんの幸運を祈ります。」
追記
1996年3月4日にラジオ番組「The Leonard Lopate Show」で放送されたウォレスのインタビューが、内容に合わせたアニメーション映像とともに公開されていた。
こちらも味のある映像なので紹介しておく。