月曜 14:45~18:00
木曜 16:30~18:00
金曜 18:00〜21:30?
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェは今英語圏で非常に注目を集めるナイジェリア出身の女性作家である。日本でも、『半分のぼった黄色い太陽』、『アメリカにいる、きみ』、『明日は遠すぎて』、(いずれも河出書房、くぼたのぞみ訳)などの翻訳が出版されており『半分のぼった黄色い太陽』はこの秋に映画も公開される予定だ。『Purple Hibiscus』はそんなアディーチェの処女作であり、コモンウェルス賞を受賞している。海外においては非常に評価の高い作品だが、未だに日本での翻訳はされていない。”religion”が重要なテーマとして大きな要素を占めていることから、日本人にはやや受け入れられにくい作品として見なされてしまうのだろうか。しかしもちろん、“religion”という言葉だけでは括ってしまえない、多面的な問いかけをこの作品は投げかけてくる。
『Purple Hibiscus』の舞台は植民地独立後のナイジェリア。政治は不安定で、財政も困難な状態にあった。主人公のKambiliは裕福な家庭に生まれ、彼女の父は熱心なカトリック信者であった。父のカトリック信仰は狂信的であり、家庭ではそれが暴力的な行動へと繋がることもあった。父の暴力により母は流産し、Kambiliも兄のJajaも父の言う事に背けば体罰を受けた。物語はKambiliの視点で、家族の崩壊と彼女の苦しみが描かれる。しかし、叔母とその三人の子供が暮らす家での滞在をきっかけに、Kambiliの心境は大きく変化していく。
『Purple Hibiscus』はKambiliが自らの言葉を獲得していく旅、と言い換えることができるかもしれない。物語の初めKambiliはほとんど言葉を話さない。何かを聞かれても、どもったり、咳き込んだりしてしまう。彼女は父という脅威によって自分の本心を語る言葉を持つことができずにいる。例えばこんなやりとりがある。
“パパが壊してしまったこと、残念に思う”と言うつもりだった。だけど出てきた言葉は「ママ、壊れてしまったこと、残念に思う」だった。
ママは頷いて、それから、大したことではないとでも言うかのように、首を振った。
これはKambiliの母が大切にしていた、陶器のバレエダンサーの像を父が壊してしまった後に交わされる会話だが、そこには‘パパが‘という言葉が欠落している。Kambiliが口にする言葉には、いつも空白がある。そしてそんな言葉の空白を埋めるように彼女は咳をする。彼女が咳をする時、そこには語られずに抜け落ちてしまった言葉が存在している。
私はグラスに手をのばし、小便のような黄色のジュースを見つめた。それを一気に喉に流し込む。他にどうすればいいかわからなかった。こんなこと、人生で一度だってなかった。家の壁は崩れ落ちるだろう、と思った。フランジパニの木はぺちゃんこになるだろう。空は落下するだろう。ぴかぴかの大理石のフロアに広げられたペルシャ絨毯は縮んでしまうだろう。何かが起こるはずなのだ。だけど、私はむせかえっただけだった。咳が出て、身体が震える。パパとママが駆けつけてくる。パパが背中を叩き、ママは肩をさすりながら言った。「O zugo. 咳をするのはやめなさい」
言葉で語る代わりに、Kambiliは目で語ろうとする。Kambiliは相手の言葉を追うのではなく、視線を追いかけようとする。特に、Kambiliと兄のJajaがアイコンタクトによって意思の疎通をはかるような場面は度々登場する。
兄さんは話しかけるかのように、テーブル上のミサ典書を見つめた。
「パンで気分が悪くなったんだ」
私は兄さんを見つめた。兄さん、頭が緩んじゃったの?
パパは「聖体」と呼べと言った。「聖体」によって、キリストの体、聖なる本質に近づけるのだと。
「それに司祭が僕の口にずっと触れているから吐き気がしたよ」
兄さんは言った。私が見つめていることに、口を閉じるように訴えかけていることに、気が付いているはずなのに、彼はこちらを見ようとしなかった。
『Purple Hibiscus』は言葉の戦いでもある。言葉を制する者が強者であるのだ。Ade Cokerは政府に批判的な記事を新聞に書いたことで殺されてしまう。彼もまた語ることを許されずに、自らの言葉と共に存在を抹消されてしまう。また、Kambiliの父は、イボ族の父親に育てられたにも関わらず、イギリス訛りの英語を話し、家庭はおろか公共の場でイボ語を話すことは決してない。彼にとってイギリス訛りの英語を話すことが、彼の名誉を守ることであり、彼が育てられながらも、蔑んでいる伝統主義の父親との決別を表しているのだ。言葉で上手く語れないKambiliはいつも弱い立場にいる。クラスメートに笑われたり、陰口を叩かれたり、従妹からも時にきつい言葉を浴びせかけられる。
「オラの葉?」私はへどもどしながら尋ねた。
「そうよ。どうやって準備するかわかる?」
私は首を振った。「わからない」
「それなら、アマカが教えてくれるわ」
叔母さんは言った。
「なんでよ?」アマカは叫んだ。「金持ちは家でオラの葉の下ごしらえをしないってわけ?オラのスープを食べたりなんかしないっていうの?」
叔母さんの目が厳しくなった。叔母さんはアマカを見ていなかった。叔母さんは私を見ていた。
「O ginidi あなたには口が付いていないの?なんとか言い返しなさい!」
叔母の家では、皆思ったことを率直に口にする。初めは何かを言われても言い返すことすらできないKambiliであるが、叔母の家で生活していくうちに少しずつ自分の言葉を手にしていく。そしてKambiliは一回りも二回りも逞しくなっていくのだ。彼女は笑い、歌い、冗談を言うようになる。言葉と共に、彼女は自らの存在を確立し、他者と交流し、そして自分の居場所を手に入れていく。彼女の追いかける“目”の中には、ついには自分自身の姿も捉えられる。
私は笑った。アラマンダの花があまりに黄色いから、笑った。神父様が花の蜜を本当に吸ったとしたら、白い液体の苦い味をどのように思うだろうと想像して笑った。私は笑った。神父様の目がとても濃い茶色をしていて、その瞳の中には、私が映っていたから。
ちなみに、作中の人物たちの会話には度々イボ語が挿入される。しかし、イボ語がわからなくとも、イボ語の辞書が手元になくとも何ら問題はない。効果的に文脈内に挿入されていることによって、イボ語はきちんと意味を持って鮮やかに立ち現われてくるのだから。
必ずしも辞書に書かれた意味が全てではない、むしろ辞書や“意味を知っている”ということが足かせになって、言葉の彩りを褪せさせてしまうのだということは、私自身、翻訳を学んでいる中で度々痛感させられることでもある。「ことば」の扱いは本当に難しい。