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「移民系女子」の結婚事情はいかに
『新婚』 (The Newlyweds) は、ネル・フリューデンバーガーの2作目の長編小説だ。彼女は、雑誌 “The New Yorker” が選ぶ「40歳以下の20人のアメリカ作家たち(2010年)」と、文芸誌 “Granta” が選出した「優秀な若手アメリカ作家」の一人であり、「ペン・マラマッド賞」や「スー・カウフマン賞」といった文学賞を受賞している才能あふれる作家なのだが、日本ではまだ翻訳が一冊も出版されていない。
ハーバード大学を卒業した才媛は、26歳で作家デビューする。ファッションモデルのようなスタイルと美貌(実際にモデルの仕事もこなしているのだけれど)に恵まれ、「移民系女子」の恋心を細やかなタッチで描くフリューデンバーガーをファッション雑誌の編集者たちが放っておくはずがなく、 “Vogue” や “Elle” 誌上で「美人作家」としてピックアップされて、瞬く間に人気を集めた。
日本でもアメリカでも事情は同じなようで、「どうせ、顔で売れたんでしょ?」と、美しすぎる作家は、いつもはじめは叩かれる。有名なエピソードとしては、2003年にサロンドットコムの書評で、作家カーティス・シテンフェルドは、フリューデンバーガーの短編集『ラッキー・ガールズ』 (Lucky Girls) を取り上げ、 “Too young, too pretty too successful” 「あまりに若く、あまりに美しく、成功しすぎ」と彼女を評している。 (http://www.salon.com/2003/09/04/freudenberger/) 1975年生まれの彼女は当時28歳だった。
平易で柔らかな言葉によって紡がれる彼女の文章は、読者にそっと寄り添いながら物語の世界へ引き込んでいく。視線さえも鋭利な武器となる女性たちの皮肉と沈黙の応酬はまさに修羅場であり、息づかいを肌で感じられる距離の男女の会話には、ちょっとした気恥ずかしさを呼び起こす。一読すればすぐ、フリューデンバーガーの確かな筆才に気づかされるだろう。
『新婚』は、バングラデシュ人のアミナという女性の「現代寓話的シンデレラ・ストーリー」として読める。当然ながら、安易なかたちでハッピーエンドに向かう小説ではない。シンデレラの暗い感情があらわになる辺りは、思わず、ため息をついてしまう。夫に愛想をつかして、ちょっと危ない火遊びをする妻のラブロマンス、娘の渡米がきっかけでギャングの姦計に陥ってしまうサスペンスなどの多彩なエンターテインメント要素が物語のあちらこちらにちりばめられているから、最後までどきどきしながら読みすすめることができる。
裕福とは言えない家庭に生まれたアミナは、インターネットのお見合いサイト「アジアン・ユーロ」で知り合ったアメリカ人の白人男性ジョージと結婚するため、合衆国にやってくる。彼女の夢は、大学にゆき、教師になること。裏を返せば、結婚は、夢のような世界に渡るための切符でしかない。シンデレラのしたたかな生き方が垣間見える。「「子どもは欲しい」アミナは言った。「両親が面倒みるのを助けに来てくれればだけど。アメリカ人は両親と同居するのが好きじゃないって知らなかっただけよ」」同居はしたくないと主張する夫に失望したというこの言葉に象徴されるように、アミナは両親と一緒に豊かな理想の世界へ脱出したくて、合衆国に渡ったのである。彼女の理想と離れた考えを夫が示すと、ひどく落胆してしまう。極めて利己的な欲望が潜んでいるのだ。
現実においても、国境を越えて、インターネットのサイトで知り合った者同士が結婚するという事例は年々増加している。フリューデンバーガーは「ニューヨークタイムズ」紙のインタビューで、この作品の着想について語っている。かつて飛行機でとなりに座っていた女性が、まさに結婚を契機にバングラデシュからアメリカへ移住するところだったようで、その時の彼女との会話が『新婚』執筆の下敷きになったと言う。
結婚するまでは、ジョージに対してバングラデシュの男性にはない魅力を感じていたアミナであったが、次第に幻滅してしまう。合衆国においてアミナを、経済的にも精神的にも守ってくれて、言葉や文化について教えてくれる親に似た存在であったジョージに、新しい環境に慣れるにつれて対等な立場で、夫、男性として向き合うようになると、視点が変わるのだ。
彼がついていた嘘や、約束の反故、結婚前につきあっていた女性の存在、保守的な頑固さなどが明らかになってゆくにつれて、いわゆる、夫婦の価値観の相違が浮き彫りになる。不信感が募りだすと、彼に関する記述の密度が明らかに下がっていき、バングラデシュの家族にばかり関心が向きだす流れには、こちらも書き手の気分に乗せられてしまう。
そもそも、ジョージを心から愛しているのだろうか。結婚式で誓いのキスをするときに、彼女は反射的に後ろに身を引いてしまう場面は印象的だ。離婚してしまえば、合衆国の市民権は手に入らないという足かせがついているから、よけいに悩ましい。
他方で、その市民権認可の面接試験に臨むときには、「もし大使館でなにか問題があっても、きっとそんなことないけど、白人でアメリカ生まれの夫が一緒に列に並んでくれていることは、すごく大きな助けになってくれる」と心強く思ったり、バングラデシュで大変な事件に巻き込まれたときには、「ジョージの声が聞きたい」と願ったり、ジョージは夫として強固な心の支えになっている。ところが、恋愛関係を経ないで結婚した二人には、しっかりとした愛がなかなか芽生えない。関係が再生するきざしをほのめかされながらも、バングラデシュから両親を迎え、子どもをもち、「新婚期間」を終えて、安定した夫婦関係を築くことはできるか、確証はない。
アミナ自身もそのような不安にかられる。だが、アメリカを離れ、単身バングラデシュに帰国した彼女の目にとまる風景は、ふとジョージのことに想い起こさせたり、合衆国の風土と比較したりする瞬間は、彼女の根はもうアメリカに埋まっているのかもしれない、と感じられる。
合衆国の自然環境や文化、人間関係を受け入れて、英語でものごとを考える「アメリカ人としての私」と祖国の文化や宗教、親族を大事にし続ける「バングラデシュ人としての私」の間でアミナは揺れ動く。だが、新天地で疎外感に苛まれても、もはや祖国にも馴染めなくなってしまっているという根無し草の感覚を描きだすだけであれば、新味はない。アメリカ合衆国に身をおく大抵の人たちのルーツは移民であり、建国から現代にいたるまで、この不安は、アメリカ文学の根幹をなすテーマとして、くりかえしされているからである。
しかしながら、フリューデンバーガーは、アミナという女性に「移民の現代性」を担わせている。これまでの書き手たちが、国が依る歴史や宗教といった価値観を主人公のアイデンティティの中心に据えていたけれども、アミナはそれらをあまり意識していない点に、フリューデンバーガーの独自性と、作品のリアリティはあるだろう。
もちろん、フリューデンバーガーが、バングラデシュの文化や歴史を書き込んでいないわけではない。アミナの父親は、バングラデシュ独立戦争に参加した過去をもち、政治が絡んだ虐殺など悲惨な事件について娘たちに語る。しかし、アミナは、国を生まれ育った土地として受け入れている。一方、両親を失い、従兄のような付き合いをしてきた幼なじみであるナーサは、一度はイギリスへ飛び出したが、バングラデシュに戻ってきている点は対照的だ。彼は言う。「合衆国の経済は上向くよ。いつだって、あっちはここよりも良い所さ。問題はね――俺は故郷を考えられずにはいられなくなっちゃうんだ。故郷って女の子みたいなもんなんだ。離れている間は、彼女って完璧って思えてさ、それで戻ってみると、すっごく変わっちゃうんだよね」生活水準が低くても、ナーサはバングラデシュという地で、家族で暮らし、一緒に食事をできることを夢みている。アミナは両親と一緒にアメリカで豊かな生活をすることを望んでいる。家族を大切に思う気持ちは共通しているけれど、バングラデシュという大きな背景の捉え方が二人は異なっているのだ。
合衆国で生まれながらも、インドに憧れるキムとも違う。キムは、「私がいたのとは全く違うふうな家族が欲しい」と言う。ヨガを勉強し、旅行中にインド人男性と出合って、「インド人女性はそんなことしない」と言われながらも付き合った過去をもち、いまでもサリーを日常的にまとってヨガを教えている彼女と、ジーンズやTシャツを着てアメリカ的な生活に馴染んでゆくアミナとでは、外国の男性と結婚する点では似ているが、その外国文化に対するアプローチには差異がある。
合衆国においてもアミナは、同郷のコミュニティーとも、モスクとも交流をもたない。宗教と関係ないところで結婚式を挙げる。料理は下手だと公言しているのだが、バングラデシュの郷土料理や民族衣装にこだわりもない。むしろ「私、女子としてでさえ、欧米の服のほうが好きなんだ。いつも手や足を隠しておきたいの。ときどき、髪だって――私の知ってるほかの女の子たちがサリーを着てるときだってそうなのよ」と言ってのける。
つながりは、ジョージの親類や近隣の住民、そしてパート先であるスターバックスが彼女のコミュニティーなのだ。そして、電話やメールを通じて、バングラデシュに住む両親たちとも連絡を取り合う。夫婦喧嘩で皮肉文句さえも理解できるほど英語能力が上達しても、アミナは異文化に完全に溶け込むことはできない。育ってきた環境や文化を捨て去ることはできないし、過去の時間や記憶を共有しているという家族の輪に入り込むことは容易ではないからだ。
ジョージの親族パーティでは、二つの輪に分かれて談笑している親族たちに挟まれて、口を挟むと「邪魔だって、思われるかもしれない」と躊躇する。そして「途端に3つのことが、はっきりとアミナにはわかった。(…)この部屋にいる全員がずっと前からその事実を知っていたのだ。アミナをのぞいて。」幼い頃の愛称で呼んでくれるのは、バングラデシュの親類だけなのである。
アミナは、定められた3年間を合衆国で過ごし、ついに市民権を獲得して、当初からの希望であった両親の移民手続きを手伝うために、バングラディッシュへ一時帰国する。そこでまず、3年ぶりに土を踏んだ故郷も、また悪いところは都合よく忘れてしまい、無意識のうちにバングラデシュを美化していたことを痛感する。景色を眺めるとき「夢の中では、この臭いは思い出されなかったものだから、いま、考えていた故郷と、ここという場所の間には違いがあったのだ」と考える。そして、合衆国市民になったという妙なプライドが邪魔をして、親族や友人たちにさえ、不況により生活が苦しくなっていることや、夫に対する愚痴などを思うままに、こぼすことができない。両親以外には、昔のように接することができない。結婚写真を見せて「お姫さまみたいな生活ね」と羨ましがられると、内心で喜びを感じてしまうのだ。
『新婚』というタイトルにフリューデンバーグが託しているのは、言葉の定義には還元できない、微妙な夫婦関係ではないだろうか。アミナが指摘しているとおり「新婚生活」とは「結婚後の一定期間」を呼ぶ言葉である。しかし、「新婚とは奇妙な感じがする。いつかそうでなくなるまで、抽象的な夫婦関係が最終的に、彼らが置き去りにしてきた生活よりもしっかりしている、と思えるまで。」と語られるように、夫婦生活に一般的なモデルや規定があるわけではない。曖昧な長い時間を経て、ふと顧みたときに、新婚生活が終わったと気づくものなのだ。
だからこの「新婚」は「移民」の比喩でもある。特定の期間を過ごし、試験に合格したり、条件を満たしたりすれば、永住権や市民権が与えられること、法的な書類を提出すれば結婚できること、といった実感できる生活とは無関係な次元の「規定」や「法律」によって、アミナという人間を構築する事実は固定されていく。
これに対する違和感は、1年間結婚生活を送れば、「新婚」ではなくなるという風説が喚起するのと同質だ。一時帰国中、アメリカ人についてあれこれ尋ねられることに少しうんざりしたアミナが言う。「アメリカ人はみんな、こうするなんてことはないよ(…)ちょうど、バングラデシュ人なら全員こうするっていうことがないようにね」映画や小説、雑誌が生産するイメージや、文化的な規範や規定という形のない概念によって日常的に縛られながらも、身体レベルでは、一人ひとり違った個性や価値観を持つことは、誰しも直感的にわかっている。「新婚」とはそれらの偏見や先入観を排して、パートナーと向き合い、確固たる信頼関係を結ぶ期間なのかもしれない。
そして、『新婚』とは男女の夫婦関係に留まらない。「移民」にもまたあてはまるのだ。その気になればどんなしがらみからも脱出できる世界においては、メディアで映し出された「むこう」の世界に移民することができる。テクノロジーの発達によって、各国の伝統ある文化が揺らぎ、流動性が高まった世界では、もはや「ここ」にも「むこう」にも根を張るべき盤石な土地が用意され、広がっていはいない。新たに人間関係を構築し、仕事を探し、家庭を築くことで、新天地を確固たるものに変えるところから、始めなければならない。それが出来上がったときに、「新婚」生活が終わりを告げるのだろう。