月曜 14:45~18:00
木曜 16:30~18:00
金曜 18:00〜21:30?
ブロードウェイに避暑地の斡旋業者の目からいまだかいくぐってきたホテルがある。そこは奥行きがあり広々として涼しい。それぞれの客室は低温の黒オーク材で仕上げられている。ホテル特製のそよ風と深い緑の生け垣がなにかと不便なアディロンダック山地にわざわざ足を運ばずともこの上ない心地よさをもたらしてくれる。客は真鍮のボタンをつけたガイドに付き添われてホテルの広々とした階段、もしくはエレベーターで夢のように空中をすべるように上ると、アルプスの登山者でも味わったことのない晴れ晴れとした喜びを味わうことができる。厨房にいるシェフがふるまってくれるのは、ホワイト山脈が供するよりも美味なカワマスや、オールドポイントコンフォートあたりの人々が「こりゃかなわねえ!」と嫉妬で青ざめるような魚介類、そして猟区管理人のお役所根性をもとろけさせるであろうメイン産のシカ肉だ。
ごくわずかな人々だけがこのオアシスを七月の砂漠のようなマンハッタンから見つけ出す。そのひと月のあいだ、ホテルの客はめっきり減って、涼しい夕暮れともなれば、壮麗なダイニングルームにたっぷりと余裕をもって贅沢に席をとり、人気のない、雪原のようなテーブルの列ごしに、お祝いの意味をこめてそっと視線を交わしあっている。
十分すぎる人数の、注意深い、風のように動きまわる給仕たちは常にかたわらをはなれず、客が口にするより先にその要望をみたしている。室温は永遠の四月である。天井には水彩絵具で夏空が模され、白雲はそこをたなびいている。そして、自然がするように消え去りはせず人を悲しませることはない。
陽気なかなたブロードウェイの街の喧騒も、この幸せな泊り客の想像力にかかっては森を静かに満たす滝の音へと変化してしまう。客たちは、耳慣れない足音がするたびに不安げに耳をそばだて、その隠れ家が、秘境を求めてやまない騒々しい遊び人たちに発見され、踏みこまれてしまうのではないかと恐怖におびえる。
このように、閑散とした隊商宿では、ほんのひと握りの目利きたちだけが、酷暑の季節のあいだ油断なく身を潜め、人智が凝集し提供する山と海からのよろこびをめいっぱい楽しんでいた。
この七月、ホテルにやってきたのは、フロント係が受け取った名刺によると、「マダム・エロイーズ・ダ―シ―・ボーモン」という名の宿泊客である。
マダム・ボーモンはホテル・ロータスに大歓迎されるような客であった。上流階級の気品をそなえ、心からのやさしさからくる甘美さと優雅さで、ホテルの従業員たちを骨抜きにした。ベルボーイたちは彼女の呼び出しにこたえるという栄誉にあずかろうと我先にと争い、フロント係は所有権の問題さえなければ、ホテルをそっくり中身ごと彼女に謙譲してしまいそうなほどだった。他の宿泊客たちは、彼女を、孤高の女性らしさと美しさによってホテルの雰囲気を完璧なものにしてくれる仕上げのひと筆であるとみなしていた。
そのとびきり上等なお客は、ホテルから出ることはめったになかった。彼女のたちふるまいはホテル・ロータスの見識高い客たちのそれと一緒であった。この素敵な宿を満喫するには、人々は、街など、何リーグも先にあるかのように捨て置かねばならない。夜に近くへ屋上伝いで少し散歩に出るのはよいが、猛暑の日中となると、人々はかげの多い隠れ家であるホテル・ロータスにこもる。マスが透きとおった聖域であるお気にいりの池にじっと身をひそめるように。
ホテル・ロータスで一人きりであるにもかかわらず、マダム・ボーモンは女王の地位をたもち、その孤独は地位の高さゆえのものであった。彼女は十時に朝食をとった、落ち着きがあり、甘美で悠長であり、繊細な様子で薄闇のなかでほんのりと輝くそのすがたはさながら黄昏時のジャスミンの花のようであった。
しかし、夕食時にこそ、マダム・ボーモンの輝きは絶頂を迎えるのだった。彼女は山峡の人目につかない滝から生じる霧のように美しく、幻想的なガウンを身にまとっていた。このガウンをなんといったらいいのか、筆者には想像もつかない。褪せることのない薄紅の薔薇がレースで装飾された胸元に静かに咲いていた。そのガウンは給仕長が尊敬のまなざしを向け、ドアまで出迎えるほどの逸品だった。それは一目でパリを彷彿とさせ、場合によっては謎めいた伯爵夫人を、そしてベルサイユ宮殿を、レイピアの小剣を、女優のミセス・フィスクを、赤と黒のトランプゲームをも想い起こさせるだろう。誰が言い出したのかわからないホテル内での噂によれば、マダムは世界をまたにかける国際人で、その細く白い手でロシアが国家間で有利になるように裏で糸を引いているということだった。世界中を自由気ままにめぐる夫人であるならば、洗練された行楽地であるホテル・ロータスが、灼熱の真夏のあいだを静かにやり過ごすのにアメリカで最も望ましい場所であるということに彼女がいち早く気付いたのにも頷けることだ。
マダム・ボーモンがホテルに滞在して三日目に、若い男がホテルに訪れチェックインした。お決まりの順番で彼の特徴を述べるならば、服装はさりげなく流行を取り入れたもので、顔立ちは端正、所作は落ち着き払い洗練されており、世慣れた様子であった。彼はフロントに三、四日滞在するむねを告げ、欧州行きの汽船の出航についてたずねると、ひいきの宿に泊まる旅行者の満足げな様子で、極上のホテルの至福の遊惰な時間に身を沈ませた。
この若い男は――宿泊簿に書かれたことを疑わないのであれば――ハロルド・ファリントンという名であった。彼は上質で平穏なホテル・ロータスでの生活の流れの中に如才なくそっと入り込んだので、同じように休息を求める滞在者たちの間に警戒のさざ波を立てることはなかった。食事はロータスで常連の客と共にし、『オデュッセイア』にてオデュッセウスの船の水夫が蓮(ロータス)の実を食べ恍惚に浸ったように、彼もまた他の幸運な水夫たちとともにロータスを満喫し、至福の安らぎに身を預けた。一日のうちに彼は自分用のテーブルとウェイターを、さらにはブロードウェイを暑苦しくさせている休息の地を息巻いて求める者たちがこの隣接した秘密の楽園を襲い破壊するのではないかという恐れをも手に入れた。
ハロルド・ファリントンがホテルに到着した翌日の夕食後、マダム・ボーモンがすれ違いざまにハンカチを落とした。ファリントンは、それを拾い彼女に返したが、交際を求めるような馴れ馴れしさはついぞ見せなかった。
ひょっとすると不可思議な仲間意識がホテル・ロータスの目の肥えた客達の間に芽生えていたのかもしれない。あるいは最高の避暑地であるこのブロードウェイのホテルを発見した二人の幸運によって互いを引き寄せたのだろう。一言ひと言に細心の礼儀を尽し、形式ばった堅苦しさから抜け出すことにためらいつつも二人の会話は続いた。そして、真の避暑地の雰囲気に適するかのように、二人の交際の芽はすぐに育まれ、花を咲かせ、実を結んだ、それはまるで手品師がたちどころに謎の植物を咲かせるようであった。しばらく彼らは廊下のつきあたりにあるバルコニーに立ち、羽のように軽やかで当たり障りのない会話を交わした。
「月並みな避暑地にはもう飽きあきしてしまいましたの」とマダム・ボーモンはそう言ってほのかな、しかし甘美な笑顔を浮かべた。「山地や海岸を飛びこえ、喧騒や埃から逃れることにどんな意味があるのかしら、まさにそれらをつくり出す人々が私たちを追いかけるというのに。」
「海上でさえ」ファリントンが悲しげに言った。「俗物どもからは逃れられないでしょう。最上級の汽船はフェリーボートとほとんど変わらないような有様になっています。大変なことになるでしょうね、もし避暑地の観光客たちが、ホテル・ロータスの方がサウザンアイランドやマキノーよりブロードウェイとずっと隔絶されていることを知ってしまったら。」
「私たちの秘密の園が向こう一週間無事に守られることを願いますわ。なんとしても」とマダムはため息をついて微笑んだ。「そのような方々が愛するホテル・ロータスにあがりこんできたらどこへ行けばよいかわかりません。私は夏を過ごすのにとても快適な場所をここの他に一か所知っていますが、せいぜいウラル山脈にあるポリンスキー伯爵のお城ですわ。」
「聞くところによると、ドイツのバーデン・バーデンやフランスのカンヌはこの時期は閑散としているそうですね」ファリントンが言った。「年々、昔からの行楽地の評判は落ちこむばかりです。きっと多くの人が我々と同様に、静かな隠れ家、それも今まで世間から見過ごされてきた隠れ家を探し求めているのでしょう。」
「私あと三日は、贅沢な休暇を味わうことを自分に約束しましたの」マダム・ボーモンは言った。「月曜にはセドリック号が出港しますので。」
ハロルド・ファリントンの目には遺憾の意があらわれた。「私も月曜には出発しなければいけないのです」と彼は言い、「もっとも私は外国へは行くわけではありませんが。」と続けた。
マダム・ボーモンは外国人風の身振りで片方の丸みをおびた肩をすくめてみせた。
「ずっとここに隠れているわけにはいきませんわ、どんなにそうしたい魅惑にかかってもね。お城(シャト―)では私の到着をもう一カ月は待ち続けていますの。そこで催されるパーティーといったら・・・なんと煩わしいのでしょう!それでもホテル・ロータスで過ごした一週間のことは忘れませんわ。」
「私もです」とファリントンは小さな声で言った。「いつまでもセドリック号を、恨み続けるでしょう。」
それから三日後の日曜日の夜、二人は例のバルコニーで小さなテーブルに腰かけていた。よくわきまえた給仕がアイスクリームとクラレットカップが入った小さなグラスを持ってきた。マダム・ボーモンは毎晩夕食のときに着ているのと同じ美しいイブニング・ガウンを身にまとっていた。物思いにふけっている様子だった。テーブルにおかれた彼女の手のそばに、帯飾り鎖のついた小さな財布が置かれていた。自分の分のアイスクリームを食べ終えると、彼女は財布の口をあけ、中から一ドル紙幣を取り出した。
「ファリントンさん」ホテル・ロータスを骨抜きにした笑顔と共に、彼女は言った。「私、あなたに話しておきたいことがあるんです。明日の朝食よりも早くに、私はここを去ります。仕事に戻らないといけないんです。私はケーシーズ百貨店の靴下売り場で働いていて、明日の八時には私の休暇は終わってしまいます。この紙幣は来週の土曜日の夜に八ドルの給料をもらうまでに私の目にする最後のお金です。あなたは正真正銘の紳士です。私にとても良くしてくださいました。だから、ここを去る前にお伝えしたかったんです。
「私は一年間かけて、この休暇のために給料のなかから貯金してきました。せめて一週間だけでも貴婦人のように過ごしてみたかったのです。毎朝七時にベッドから這い出さねばならない生活をやめて、好きな時に起きてみたかったのです。それにお金持ちがするように、最上級のごちそうを食べ、給仕にかしずかれ、用があればベルで呼び出したかったのです。今や、それらもかないました。私の人生で絶えず夢見ていたようなもっとも幸福な時を過ごすことができました。私はこれから仕事と、廊下のはしの小さな部屋に戻り、一年間は満ちたりた気持ちでいられるでしょう。私がこういうことをお話ししたかったのは、ファリントンさん、あなたに一種の好意を寄せられているように思ったからですし、また私はー私はあなたに好意をもったのです。でも、ああ、いままであなたをだますよりほかありませんでした。私にはなにもかも本当におとぎ話だったのですから。そこで私はヨーロッパのこととか、本で読んだ外国のことなどを話して、立派な貴婦人のように思わせたのです。
「私が着ているこのドレスもーこの場にふさわしい唯一のドレスなのですがーオダウド&レヴィンスキーの店で分割払いで買ったものなのです。
「値段は七五ドルで、仕立てたものです。私は十ドルを頭金として払いました、残りは支払い終えるまで週に一ドルずつ集金にくるのです。私がお話ししたかったのはこれでだいたい全部です。ファリントンさん、最後に一つだけ、私の名前がマダム・ボーモンではなくメイミー・シヴィターだということを付け加えておきましょう。話を聞いてくれてありがとうございました。この一ドルは、明日、ドレスの分割払いにあてます。ではこれで自分の部屋に戻ります。」
ハロルド・ファリントンはロータスでいちばん美しい客の告白に顔色一つ変えずに耳を傾けていた。そして彼女が話し終わると、上着のポケットから小切手帳のような小さな帳面を取り出した。それから帳面の用紙の空欄にちびた鉛筆でなにやら書き込むと、一枚をひきさいて彼女に差し出し、一ドル紙幣を取りあげた。
「僕も仕事にでなければなりません、朝から。」と彼は言った。「しかし今から仕事を始めてもいいんじゃないかと。これは一ドルの月賦の領収書です。僕はオダウド&レヴィンスキーの集金係を三年前からしています。なんだか愉快じゃないですか、僕たちが休暇を過ごすのに同じことを思いついたことがですよ。僕もいつも素晴らしいホテルに泊まってみたいと思っていて、二十ドルの給料の中から貯金してやっと実現したんです。だから、ねえ、メイミー、こんどの土曜日の夜、船に乗ってコニーアイランドにでも行くっていうのはーどうです?」
にせもののマダム・エロイーズ・ダーシー・バーモンの顔は輝いた。
「ええ、必ず行きます、ファリントンさん。土曜日には店は十二時に閉まります。コニーアイランドも悪くないんじゃないですか、たとえ一週間上流のひとたちと過ごしたとしても。」
バルコニーの下では熱気にうなだれた街が七月の夜空の下でうめいたりうなったりしていた。ホテル・ロータスのなかは調節された涼しい影が支配していて、仕事熱心な給仕は軽快に歩きまわりながら低い窓のそばへやってきて、マダムとその付き人のあごひとつでもすぐに応えられるようにしていた。
エレベーターの入り口でファリントンは別れをつげ、マダム・ボーモンは彼女にとっての最後となる昇りのエレベーターへと足を向けた。だがふたりで音もなく動くエレベーターの箱に行きつく前に彼は言った。「ハロルド・ファリントンという名はもう忘れてくれまますか?ーマクマナスが本当の名前なんだージェームス・マクマナス。ジミーって呼ばれてる。」
「おやすみなさい、ジミー」とマダムは言った。