月曜 14:45~18:00
木曜 16:30~18:00
金曜 18:00〜21:30?
こ、こ、これ、『吾輩は猫である』とそっくりじゃないですか! 文体も、言葉の選択も、展開も・・・もしかして、漱石の『猫』ってO・ヘンリーの Memoirs of a Yellow Dog のパクリ・・・?
農場はどよめいた。農場員たちの目がいっせいに輝いた。
そして早速調査開始とあいなったのだが、まもなく、農場は興奮のるつぼと化した。パクリかも・・・という思いを裏付けるようなデータがぞくぞくあらわれたのだ。みんなゾクゾクしてきた。
整理しておこうか。
1904年12月 漱石の初めての創作『猫』が、正岡子規の門下の集まりの会で、 高浜虚子の朗読で発表される。
1905年1月 漱石、『猫』を「ホトトギス」に発表。
3月 O・ヘンリー、Memoirs of a Yellow Dog を New York Sunday World Magazine に発表(3月12日号)
10月 漱石、『猫 上篇』を刊行。
どうです? 興奮するなというほうが無理でしょう。1905年という同じ年に、同じような言葉をつかった、同じような文体の、同じようなユーモアをただよわせた作品が出たとなると、「!?」とおどろくのは当然だ。しかも、いわずもがな、漱石は英語が読めたわけだし、ロンドンから帰国してまもない頃だったのだから、おおいに賑わっていたアメリカのマスコミ事情にも通じていた可能性はある。
この頃のアメリカのマスコミは、ジョーゼフ・ピューリッツァーとウィリアム・ランドルフ・ハーストというふたりのメディア王がしのぎを削っていて、それぞれが新聞の市場獲得に躍起になっていた。初のカラーの新聞付録が出たのもこの時期で、販路拡大のためなら扇情的な記事も喜んで載せた。「低俗ジャーナリズム」という意味のyellow journalism なる言葉が生まれたのもこの時期である。
資本主義的な活況を呈するアメリカのジャーナリズムに、ロンドンにいた漱石が興味をおぼえたとしても不思議ではない。異国の日々の鬱を払おうとしてロンドンでもたまにはアメリカの低俗な記事をちらちら楽しんでいたということもありうる。そして、その密かな愉しみは日本に帰国してからも継続されて、なんらかのかたちでアメリカのそんな新聞を読みつづけていたということも。
そんな新聞のひとつの日曜版に、毎週のように、O・ヘンリーは書いていたのである。大評判の大人気の読み切り短編。これがニューヨークで評判のアレか、と、漱石が毎週読んでは、ほお、上手じゃん、と感心しては楽しみにしていた可能性はある。そして、ある日、ひどい神経衰弱に悩まされていたとき、なんとも滑稽な駄犬の小話にぶつかり、ホッと気が紛れたということも。
そこに虚子から連絡が来た。どうですか、散文でも書いてみませんか?
落ちこんでいた漱石は、それもいいかも、と、思った。伊藤整は書いている。
「そして漱石は『猫』の第一回に相当するものを書いた。それは続きものにするつもりでなく独立した文章であって、題も『猫伝』とするか『吾輩は猫である』とするかに迷っていた。」(新潮文庫版解説)
つまり、もとは短編として構想されたのだ。そして、頭の隅っこには、ニューヨークで評判の作家の書いた駄犬の話がぴょんぴょん跳ね回っていたのではないか・・・
農場員は色めき立ったのである。
大変だ、大変だ、大変だ、日本現代文学の原点にはO・ヘンリーがいたんだ!
しかし、そんな興奮のなか、いちはやく冷めた農場員がいて、比較年表を指さしてクールにこう言った。
「『猫』のほうが、発表は先じゃないか」
「・・・ということは、われわれの推論はちがうってこと」 まだ興奮の冷めやらぬ農場員たちはたちまちしゅんとなった。目から輝きは一斉に消えた。
しかし、クールな農場員はいっそうクールにこう言った。
「漱石がパクったんじゃないんだよ、O・ヘンリーがパクったの」
というわけで、邦題は「吾輩は駄犬である」に落ち着いたのである。
ソレハソレトシテ、ご報告。
農場のあちこちでアイコンとしてご登場願っている黄色い服の禿げたぼうやは The Yellow Kid といい、ピューリッツァーとハーストが死闘を繰り返していたときに出た新聞付録に連載されていた人気マンガ Hogan’s Alleyの人気キャラクターです。
ご寵愛のほど!(青山南 2012/04/01)