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金曜 18:00〜21:30?
長編第二作、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』が映画化され、日本でもそこそこの話題になった若手作家フォア、御年35歳。実は25歳で書いたデビュー作『エブリシング・イズ・イルミネイテッド』も『僕の大事なコレクション』という題で映画化されています。こちらはあまり話題にならなかったのか、現在絶版状態。
…というのは日本の話で、本国アメリカではベストセラー作家であり、NewYorker誌が選ぶ 20 Under 40 (40歳以下の20人)にも名を連ねるほどの人気作家です。二つの小説は、ともに世界20カ国以上で翻訳され好評を博しています。
しかし彼はデビューから10年、小説だけを書いていたのではありません。実に様々な活動を行っています。"A Convergence of Birds"というアンソロジーの編集。『イーティング・アニマル』ではアメリカ工場式畜産のジレンマについてのノンフィクション。さらには”Future dictionary of America”という辞書の編集。ベン・スティラー監督/主演のコメディードラマへの脚本の書き下ろしなど、あらゆるジャンルを超え、その才能を爆発させています。小説第三作目と位置づけられる"Tree of Codes"はむしろ、小説を飛び越えて行こうとするこうした試みの延長線上にあると言ってもいいでしょう。フォアは、”Tree of Codes”で、今まで誰もやらなかった(であろう)ことを実践しました。
"Tree of Codes"は説明よりもまず、現物を見てもらう方がわかりやすいでしょう。
なんだか穴ぼこですね…。
見た目もインパクトがありますが、
まず読者は悩むでしょう。
どうやって読めばいいものか…
こうやって読みます→
1ページずつ、下敷きかなにかを挟んで、
穴から透けて見える下のページを遮断しましょう。
下敷きを挟まずに読みづらさと格闘するのも
忘れられない読書体験になるかもしれませんが。
というわけで、"Tree of Codes"は、本来あるべきところに文字がない、というかそもそも紙がない、本の大部分がくり抜かれている(ダイカット)小説なんです。変わってますねぇ。「うわ、こんな本作るのお金かかりそう&手間かかりそう」なんて思ったかたはこちら。この本の製造過程や人々の反応、フォアのインタビューなどをビデオで見ることができます。ためしに一つだけここに貼っておきます。
どうしてこんなヘンテコな本になったのか、それは、この小説が、元々実在した作品からフォアが言葉をピックアップして別の物語を作り上げた(そしてピックアップされなかった言葉たちはくり抜かれた)小説だからです。元になった作品は、ポーランドで戦間期に活躍したブルーノ・シュルツの短編集"The Street of Crocodiles and Other Stories"で、これはPenguin Classicsで読むことができます。フォアは、シュルツの作品から言葉を抜き出し、新たな物語へと仕立てたのです。タイトルも例外ではありません。"Streets of Crocodiles"のなかに、"Tree of codes"が入っているでしょう? STREETS OF CROCODILES
ものすごく変わってて、ありえない見た目のインパクトが強すぎて、小説というよりも所謂アート本と捉えられている向きがあります。“Revolutionary” (革命だ!)とか”a true work of art”(本物の芸術品である)といった推薦文が寄せられています。しかしこの作品にはしっかりとフォアの作家としてのエッセンスが詰まっています。これまでの小説と同じく、そこには「喪失」が深く刻まれています。一ページ目を再現してみると以下のようになります。行間は紙がくり抜かれた空白だと思ってください。
The passersby
had their eyes half-closed
. Everyone
wore his
mask .
children greeted each other with masks painted
on their faces ; they smiled at each other’s
smiles
通行人たちは
半分目を閉じた。
。 人々は
つけている それぞれの
仮面を 。
子どもたちは たがいに挨拶をする 仮面を つけた
顔のまま 彼らはほほえむ互いの
ほほえみに
まるで詩です。すこし話は逸れますが、フォアがシュルツの作品をくり抜いて創作したのであれば、日本版もシュルツの作品をくり抜いて作りたくなるのが翻訳者の性ではないでしょうか。手元に、平凡社刊、工藤幸雄訳の『シュルツ全小説』があるので翻訳(?)を試みました。
通行人たちは
目を細め
。 人々は
かぶせた その信仰者たち
仮面を 。
子ども たがいに出会いすれ違い その 塗った
仮面で 挨拶を交わし
見せ合った
僕の訳と工藤訳のくり抜き、どっちが良いと思いますか? なんてことは恐ろしくて聞けませんが、翻訳ってなんだろうと考えるきっかけにもなる本です。
話をもとに戻しましょう。そう、フォアの小説はいつも「喪失」がテーマにあります。本作も、とても詩的ですが、一応物語になっています。何があったかは語られないものの大きな喪失感を抱えた父。父はほとんど狂ってしまう。狂気はやがて母も飲み込む。静けさが、暗闇が、無が部屋の中を包む。そんな様子を見ている息子。父の机にあった地図から彼らの住む街が消えて行く。まもなく彗星が地球に落ちてくるかもしれないという…
くり抜かれたページの存在が、この物語の喪失感をさらに強めています。なぜフォアの小説にはいつも喪失が伴うのか。公開インタビューで彼は面白い答え方をしています。
(あなたの小説は喪失を主題にしていると思うのですが、と聞かれて)
偶然だけどこの前、他の人からも聞かれました。
「あなたの小説は二つとも死を描いていますが、なぜですか?」 って。
僕はこう答えました。
「でも、どうしてJ.Kローリングには、なんでまた魔法使いの話なんですか? って聞かないの?」
僕はそっちの方が疑問です。
魔法使いなんて僕らの日常で出会うことないのに。
ともかく、言いたかったのは、死や喪失はここにいる全ての人が共有しているものです。それに、僕らの人生で最も重要なことです。
喪失を描くことは日常を書くこと、自然なことだとフォアは言います。そんなフォアですが、この本には特別な思いが込められています。最後に、そのことについても触れておきます。ユダヤ系アメリカ人であるフォアはあとがきの中で、ユダヤ教徒の聖地「嘆きの壁」に関する言い伝えを紹介しています。(以下抄訳)
かつてローマ軍がエルサレムに攻め入り、第二神殿を破壊した。北、南、東の壁は倒れたものの、どうしても西の壁が倒れない。神殿破壊を任されていたローマ軍兵士は、指揮官に次のような報告と進言をした。
「神殿の三つの壁は破壊しました」
「あと一つはどうした?」
「考えがあります。壁を一つ残しておくのです、我々の偉大さの証として」
「わからんな」
「もしなにも残っていなければ、そこにはなにもなかったと思われてしまいます。しかし、一つだけ残った壁を見れば、人々はあの神殿の愚かさや、我々が倒した敵のことを思い出すことができます」
それ以来、ユダヤ教徒は、この壁の割れ目に願いや祈りを書いた紙を差し込むようになりました。それらは、綴じられていない魔法の本のようで、世界に絶望をもたらす非道さと、ユダヤ人が攻め入られる必要がなかったことを思い出させてくれます。
シュルツもまたユダヤ系であり、無差別殺戮に巻き込まれた作家です。彼の作品の多くは、戦火で失われてしまっています。現在読むことができるのは、戦火を免れたものだけです。残されたシュルツの作品はまるで、あの一つだけ残った壁のようです。シュルツの作品が「嘆きの壁」だとするのなら、”Tree of Codes”の中のバラバラに連なる言葉たちは、「壁の割れ目に差し込まれた紙」だと言えるのではないでしょうか。この作品は、喪失の物語であると同時に、願いや祈りでできているのだと思います。