月曜 14:45~18:00
木曜 16:30~18:00
金曜 18:00〜21:30?
ミス・マーサ・ミーチャムは、街角で小さなパン屋を営んでいた(階段を三段のぼり、ドアを開けるとベルがチリンチリンと鳴るような店である)。
歳は四十で、銀行の通帳には二千ドルの残高が記載されている、二本の義歯と慈愛に満ちた心の持ち主だった。たくさんのひとたちが結婚していったが、だれもかれも、ミス・マーサと比べれば、そうする機会にはるかに恵まれていないひとたちだった。
週に二、三回、店にやってくるお客がいて、彼女はしだいにその客が気になりはじめた。中年の男で、メガネをかけ、茶色の顎髭をていねいに刈り込んでいる。
男は強いドイツ語なまりの英語を話した。服は擦り切れてつくろわれていたり、だぶだぶでしわが寄っていたりしたが、きちんとして見え、物腰もとても柔らかかった。
いつも古いパンを二個買っていく。焼きたてのパンは一個五セント。古いのは二個で五セント。古いパン以外のものを買い求めたことはなかった。
あるとき、男の指に赤と茶のよごれがついているのを見た。ミス・マーサは、画家なのだ、とても貧しいのだ、と思った。きっと屋根裏部屋に住み、絵を描いて古いパンを食べ、ミス・マーサのパン屋で売られているおいしそうなパンを食べたいと夢見ているのだ、と。
しばしばミス・マーサは、骨つき肉、ふっくらしたロールパンやジャム、紅茶をまえにしてため息を漏らし、そのたびに、あの紳士的な画家が、すき間風の入るような屋根裏部屋で乾いたパンを食べるかわりに、自分のおいしい手料理を味わってくれればいいのに、と思うのだった。
ミス・マーサの心は、すでにお話したように、たいへん慈愛に満ちていたのである。
男の職業についての自分の推理を確かめてみようと、ある日彼女は、安売りで買った一枚の絵を部屋から持ち出し、店のカウンターのうしろの棚に立てかけた。
それはベニスの風景画だった。壮麗な大理石の宮殿(と絵に説明書きがある)が手前の地面――というか水面に建っていた。ほかには、何艘かのゴンドラ(女性が水に手をさしいれている)、雲と空、そして明暗法の光と影のたくさんの組み合わせ。画家ならこれに目をとめないわけがない。
二日後、かの紳士がやってきた。
「古いパン、二個、ぐださい」
「いい絵、おもぢですね、マダム」パンを包んでいると、いつものドイツ語なまりで紳士が話しかけてきた。
「そうですか?」ミス・マーサは、企みがうまくいったと喜んだ。「大好きなんですの、美術と(ダメよ、そんなすぐに「画家」なんて言っては)、絵が」、と言い換えた。「いい絵だと思われます?」
「バランス」、と紳士は言った。「よくないデス。エンキンホー、ただしくないデス。ソレデワ、マダム」
男はパンの包みを受け取り、軽く頭を下げて足早に去っていった。
まちがいない、画家なのだ。ミス・マーサは、絵をまた部屋にもどした。
メガネの奥でかがやく瞳の穏やかで優しそうなこと! なんて立派な額! ひと目で遠近法のまちがいがわかるだなんて――そんなひとが古くてかたくなったパンで暮らしているとは! だけど天才というものは、たいてい、苦労した末に認められるというものよ。
絵画と遠近法にとってどれほどすばらしいことだろう、もし天才が二千ドルの貯金とパン屋と慈愛の心で支えられたなら――しかし、そんなのは夢物語だ、ミス・マーサ。
それからというもの、男は陳列ケースをはさんでちょっとした世間話をしていくようになった。ミス・マーサの快活なおしゃべりが聞きたくて仕方ないようだった。
男はあいかわらず古いパンを買っていった。ケーキもパイも、ミス・マーサ特製のサリーランというおいしい菓子パンも、ひとつとして買うことはなかった。
ミス・マーサには、男が日に日にやつれ、元気がなくなっていくように思えた。そまつな買いものに、なにかおいしいものをおまけしてあげたくてしかたなかったが、いざとなると勇気が出ない。自尊心を傷つけたくなかったのである。芸術家のプライドというものを知っていたから。
ミス・マーサは、青い水玉模様の絹のブラウスを着て店に立つようになった。奥の部屋では、マルメロの種とホウ砂を混ぜ合わせたあやしげなものを作っていた。肌つやをよくする、じつに多くの人たちがそれを愛用していたものだった。
ある日、その客がいつものように店を訪れ、陳列ケースの上に五セント硬貨を置き、古いパンを注文した。ミス・マーサがパンを取り出そうとしたとき、消防車が一台、警笛と警鐘を激しく打ち鳴らしながら通り過ぎていった。
男は、誰もがするように、様子を見ようとドアへ駆け寄った。とっさにミス・マーサはひらめいた、いまだわ。
カウンターの内側にある棚のいちばん下に、牛乳屋が十分前に届けてくれたばかりの新鮮なバターがひとかたまりあった。ミス・マーサは、パン切りナイフで二個の古いパンに深い切れ目を入れ、たっぷりバターをぬりこむと、ギュッと閉じて元にもどした。
男がもどってきたときには、パンを紙で包んでいるところだった。
いつもより楽しいおしゃべりをひとしきり交わして男が帰ったあと、ミス・マーサはひとり笑みを浮かべたが、少し心臓がドキドキしていた。
大胆すぎただろうか? 気を悪くしないだろうか? いや、だいじょうぶ。食べものにメッセージはないんだから。バターが淑女らしからぬあさましさの象徴(しるし)なんてことはないんだから。
その日はずっとそのことばかり考えていた。男が、彼女のいたずらに気づく場面を想像していた。
あのひとは絵筆とパレットを置く。イーゼルには描きかけの絵がのっており、その遠近法には非の打ちどころがない。
それから、乾いたパンと水だけの昼食を用意する。パンに切り込みを入れる、と――あっ!
ミス・マーサは頬を染めた。あのひとはバターを入れたわたしの手を思い浮かべながら食べるのだろうか? そして――。
そのとき、入口のベルがけたたましく鳴り響いた。誰かが乱暴に入ってきたのだ。
ミス・マーサは店先へと急いだ。そこには男が二人。ひとりは若い男で、パイプをくわえていた――いままでいちども見たことのない顔だった。そしてもうひとりは、例の画家だった。
画家の顔は真っ赤で、帽子はずり落ち、髪は逆立っていた。そして両手のこぶしを握りしめると、ミス・マーサに向けて激しくふり立てた。ミス・マーサに向けて{傍点:ミス・マーサに向けて}。
「ダムコップ」ものすごい大声で叫び、そして「タウゼンドンファ!」とかなんとか、ドイツ語で。
若い男が画家を外へ引っ張り出そうとした。
「マダだ」男は怒っていた。「マダ、言ッタくれてやる」
男は、店のカウンターをバスドラムのように打ち鳴らした。
「オメエのぜいでだいなじだ!」 怒鳴る男の青い瞳は、メガネの奥で怒りに燃えている。「ごのやろう、ごのおぜっかいのばばぁネゴが!」
ミス・マーサは、へなへなと棚に寄りかかり、片手を青い水玉模様の絹のブラウスにあてた。若い男が連れの襟首をつかんだ。
「行こう、もうじゅうぶんだ」、そう言って怒り狂う男を外の舗道まで引きずり出すと、またもどってきた。
「お伝えしておくべきでしょうね、マダム」と、若い男は言った。「あんなに騒いでいる訳を。あいつはブランバーガーといいます。建築製図士で、わたしはおなじ事務所の同僚です。
「この三カ月というもの、ブランバーガーはずっと新しいシティホールの設計図に取り組んでいました。懸賞金付きの公募があったものでしてね。そして昨日、ようやく墨入れが終わりました。製図士は、最初は鉛筆で描きますからね。そうやって描いたあと、ちぎった古いパンで鉛筆の線を消すんですよ。消しゴムよりよく消えますから。
「ブランバーガーは、ここでずっとパンを買っていました。そしたら、今日――そう、ほら、マダム、あのバターですよ――ええ、ブランバーガーの設計図はまるで使いものにならなくなったんです、切り刻んで駅売りのサンドイッチの包み紙にでもするしかなくなった」
ミス・マーサは店の奥の部屋へ引っ込んだ。青い水玉模様の絹のブラウスを脱ぎ、ずっと着ていた茶色の古い毛織のブラウスに着替えた。それからマルメロの種とホウ砂の混ぜものを窓から外のゴミ缶に流した。