月曜 14:45~18:00
木曜 16:30~18:00
金曜 18:00〜21:30?
三月のある日のことだった。
だめだめ、こんなふうに物語を書きはじめちゃ。これほどひどい書き出しもありません。独創性がなく、平板で、味気なく、どうにもくだらない。けれど今回に限っては、しかたないんです。というのも、この次にくる文章、物語の幕を切って落とすべき文章が、あまりに突飛で不条理で、心の準備のない読者にはとてもお見せできるようなものではないんですから。
サラはメニューを見ながら泣いていた。
いいですか、ニューヨークの娘がメニューの上に涙をこぼしているんですよ!
どうしてなのか、についてはいくつかの推測が可能でありましょう。ロブスターが売り切れていたからとか、レント[1]の期間アイスクリームを食べないと誓ったからとか、はたまたタマネギが出てきたからとか、いやいやハケット[2]の昼公演をちょうど観て来たところだったんだとか。ほどなくこれらの推測は全て間違っていることが明らかになります、ひとまず話を進めさせて頂きます。
世界は牡蠣のようなもの、この剣でこじ開けわがものにしてみせよう、とのたまった男[3]が不相応なほどの人気を博したことがあります。牡蠣を剣でこじ開けるのなんて難しくありません。しかし、考えてみたことはありますか、社会という二枚貝をタイプライターでこじ開けようとする者がいるかもしれないということを? みなさんは待っていられますか、そんなやりかたで生牡蠣が一ダース開けられるのを?
サラは、そんな使いづらい武器でなんとか牡蠣をこじ開け、なかの冷たくてぬるぬるとした世間をほんの少々かじりはじめたところだった。彼女は速記はあまりできなかった。そこいらのビジネススクールが世間に放り出してくるような速記講座の卒業生程度の力しかなかった。だから速記者にはなれず、輝くオフィスの星になることもできなかった。フリーランスのタイピストになり、雑多な清書の仕事を取って回っていた。
世間との戦いでサラが果たした最大にして最高の偉業はシュレンバーグ・ホーム・レストランとの契約だった。レストランは彼女が下宿している古い赤レンガの隣りにあった。ある晩、シュレンバーグの五品四十セントのコースを食べたあと(カーニバルで板に描かれた黒人の口めがけて球を五つ投げるときのようにつぎつぎ出てきた)、サラはメニューを持ち帰った。それは英語ともドイツ語ともつかないよくわからない字で書かれており、配列も乱雑で、注意深く見なければ爪楊枝とライスプディングから食事を開始して、スープと曜日で締めるようなことにもなりかねなかった。
つぎの日サラがシュレンバーグに見せたこぎれいな紙には、メニューが美しくタイプライターで清書されていて、魅力的にならんだメニューは正しく適切な見出しのもとにおさまっていた、「前菜」から「コートや傘の忘れ物には責任を負いかねます」にいたるまで。
シュレンバーグがアメリカにしっかり帰化したのはそのときだ。サラは店を立ち去るまでに、すっかり彼を快く契約する気にさせてしまったのである。レストランの二十一のテーブルのメニューを清書することになった――ディナーは毎日新しいものを、朝食とランチは料理に変更があったときときれいなものが必要になったときに。
報酬としてシュレンバーグは一日三食をサラの部屋まで従業員――できれば気が利く者――に届けさせ、午後には、翌日のシュレンバーグのお客が何を食べる運命になるか書かれた鉛筆書きの草稿を持っていくことになった。
両者にとって満足のゆく契約であった。シュレンバーグの常連も、自分たちの口にしている食事が何であるかがようやくわかるようになった。ときに料理そのものに困惑してしまうことがあったとはいえだ。サラとしても寒くて気が滅入るような冬に食事にありつけるのは、何よりありがたいことだった。
やがて嘘つきの暦が、春が来たと告げた。春は、やって来たときがほんとうの春なのに。一月に積もった雪は頑として街中に残っていた。手回しオルガンはいまだに「イン・ザ・グッド・オールド・サマータイム[4]」を十二月的な熱気で演奏していた。イースター用のドレスを買うために三十日後払いで前借りをする者はいた。ビルの管理人たちもスチームヒーターは切った。しかし、そんなようなことが始まってもなお、街はまだ冬の手中にあるとひとが感じることもあるのだ。
ある午後サラは、「日当り良好、ちり一つないほど清潔、利便性良し、おすすめ物件」という下宿先の優雅な寝室で寒さに震えていた。メニューを清書するほかに仕事はなかった。サラはきしむ柳の揺り椅子に腰掛け、窓の外を眺めていた。壁にかかったカレンダーがしきりにサラに叫びかけていた。「春が来たぞ、サラ —— 春だ、なあ。見ろよサラ、俺の日付をさ。君もさっぱりした姿じゃないか、サラ — 感じのいい春の姿じゃないか、どうしてそんな悲しそうに外を眺めてるんだ?」
サラの部屋は建物の裏側にあった。窓から外を眺めても、見えるのは隣の通りにある製函工場の窓のないレンガの壁だった。しかし壁はクリスタルのように眩しくて、サラの目に見えていたのは桜とニレの木に覆われた草の茂った小径と、それを縁取るラズベリーやバラだった。
ほんとうの春の前ぶれは、目や耳ではなかなか捉えづらい。クロッカスの花やハナミズキのかがやきやツグミのさえずりをきちんと認識しなければ、それどころか、消えていくそばの実や牡蠣と別れの握手をすまさなければ、じぶんの鈍感な胸に「新緑のレディ」を迎え入れることができないというひともいる。しかし、大地にこよなく愛されている子どもたちには、大地の新しい花嫁からまっすぐにやさしいメッセージが届いて、だいじょうぶよ、継子あつかいはしないから、あなたがいやでなければ、と語りかけてくるものだ。
去年の夏サラは田舎へ行き農夫と恋に落ちていた。
(物語を書くときは、こんな風に話を遡るべきではありません。これは悪しき手法で、興が削がれてしまいます。でもまあ、先へ進みましょう)
サラはサニーブルック農場に二週間滞在した。そこで父フランクリンの後を継いだウォルターと出会って恋を知った。農夫たちというのは恋をして結婚して農作業にもどるのにそんなに時間をかけないのが普通である。しかし、若きウォルター・フランクリンはモダンな農業青年だった。牛舎にも電話を引いていたし、翌年のカナダの小麦の収穫量が新月に植えたじゃがいもに与える影響も正確に計算できた。
木陰の、ラズベリーに縁取られた小径で、ウォルターは求婚し、サラを得た。二人は一緒に腰をおろして、サラの髪に合うタンポポの冠を編んだ。黄色の花が茶色の髪にすごく映えると彼が褒めちぎったので、サラはその冠を頭にのせたまま、ストローハットを手に振りまわしながら家路に着いた。
結婚するのは春になった――春の最初のしるしが来たらね、とウォルターは言ったのだ。そこでサラは街へ戻って、またタイプライターを打ちはじめた。
ドアをノックする音が、その幸せな日を夢見るサラの想いを吹き飛ばした。ウェイターが、老シュレンバーグの角張った字で書かれた翌日のメニューの原稿を持ってきたのだ。
サラはタイプライターの前にすわってカードをローラーに挟みこんだ。彼女の仕事は早い。たいていは一時間半で二十一枚のメニューカードの清書は仕上がる。
この日はいつもよりメニューの変更が多かった。スープはあっさりしたものになり、豚肉はアントレから外され、ロースト料理の一品としてロシア蕪を添えたものだけになっていた。穏やかな春の陽気がメニュー全体に広がっていた。ついこの間まで緑の丘を跳ねまわっていた子羊は、その元気を讃えるケッパー・ソースにからめて食い物にされようとしていた。牡蠣の歌声は、途絶えてこそいなかったが、ディミヌエンド・コン・アモーレになっていた。フライパンはオーブンのやさしい檻のなかにしまわれて、じっと動かなくなったようだった。パイのリストは膨らんでいた。濃厚なプディングは姿を消していた。ソーセージは衣に身をくるみ、そば粉のパンケーキと甘いがすでに運の尽きたメープルシロップとともに、心地よさげに死の淵をさまよっていた。
サラの指は夏の小川で跳ねる小人のように踊った。メニューを下りながら、それぞれの品を適切な場所に、正確な目で長さを測って配置していった。デザートの前には野菜のリストが並んだ。ニンジンとエンドウ豆、トーストにのせたアスパラガス、トマトとコーンの入ったサコタッシュ、ライマメ、キャベツ、それから――
サラはメニューを見ながら泣いていた。神々しい絶望の淵から涙が胸にこみあげ、瞳に集まった。タイプライターを置いた机に突っ伏した。キーボードがカタッと乾いた音を出して、湿ったむせび声に伴奏をつけた。
というのも、ここ二週間ウォルターからの手紙は届いていないのに、メニューのつぎの項がタンポポだったのだ――タンポポと卵の料理――卵なんてどうでもいい!――タンポポ、その黄金色の花でウォルターは冠をつくり、愛の女神に、未来の花嫁にかぶせてくれた――タンポポ、春のしるし、悲しみの悲しい冠[5]――いちばん幸せだった日々の思い出。
皆さん、笑っていられますか、もしもこのような試練を課せられたら。たとえば、あなたが真心を捧げた夜にパーシーがくれたマレシャル・ニール種のバラがフレンチドレッシングをかけられてシュレンバーグの定食にサラダとして目の前にだされたら? ジュリエットも、もし愛の証が汚されたら、ただちにあの薬屋に忘却のハーブをもらいにいったことでしょう。
それにしても、なんてすごい魔女なのでしょう、春というのは! 石と鉄の冷たい大都会へメッセージを届けてきたのですから。運んできたのは、ほかならぬ、ぎざぎざの緑色のコートを着た、穏やかな雰囲気をただよわす、小さくて頑丈な野原の使者。まさに真の運命の騎士です。ダン・ドゥ・リオン(dent de lion)— フランス人のシェフに言わせれば、ライオンの歯は、花咲けば恋愛に手を貸して、乙女の亜麻色の髪に飾られます。青く未熟でまだ花が咲く前は、煮えたぎるポットの中に飛び込んで、地を統べる春の女王の言葉を伝えます。
少しずつサラは涙を押し戻した。メニューを仕上げなければいけない。しかし、まだタンポポの夢から発せられるほのかな黄金の光のなかにいて、しばしうつろにタイプライターのキーを叩いていた、若い農夫といっしょだった農場の小径を心はさまよっていた。しかしまもなくマンハッタンの石に閉ざされた道に戻り、タイプライターはカタカタと跳びはねはじめた、スト破りの自動車のように。
六時に夕食を持ってきたウェイターが、清書されたメニューを持って帰った。食べるときサラは、ため息とともに、冠のように卵がのったタンポポの料理を脇にのけた。この黒い塊が明るい愛の証であった花から醜い野菜へと変わり果てた姿であるように、彼女の夏の希望もしぼんで消えたのだ。愛は愛を養分にする、とシェイクスピアは言った。しかしサラにはタンポポを食べることはどうしてもできなかった、初めての心からの真実の恋の宴を彩ってくれたものなのだから。
七時半になると、隣の部屋でカップルが喧嘩を始めた。上の部屋の男はフルートでAの音を探してチューニングにはいった。ガスの勢いが弱まり、石炭を運ぶ荷馬車が三台荷をおろした ――その音には蓄音機も嫉妬するほどだった。裏のフェンスの上にいたネコたちがロシア軍が奉天へ退却するように消えていった。これらの合図に、サラは読書の時刻だと気づいた。『僧院と家庭[6]』を取りだした、今月最も売れなかった本だ、トランクの上に足を乗せるとジェラードとの旅に出かけた。
玄関のベルが鳴った。家主の女主人が出た。サラは、熊に追い詰められて木に登ったジェラードとデニーズにはかまわず、耳をすませた。そりゃそうでしょう、あなただってそうするでしょう、彼女とおなじように!
まもなく力強い声が階下の玄関からした、サラはドアに跳びついた。本は床に投げ出した、第一ラウンドはあっさりと熊が勝った。
もうおわかりでしょう。サラが階段にたどり着くと、三段とばしで駆け上がってきたのは愛しの農夫だった、サラを刈り取り収穫して、穂ひとつ落とすまいという勢いだった。
「どうして今まで何の知らせも ―― ねえ、どうして?」サラは泣いていた。
「ニューヨークはとんでもなくでかいんだ」とウォルター・フランクリン。「先週君の昔の住所を訪ねた。どこかへ越したのが木曜だとわかった。それで少しは安心した。金曜じゃ縁起が悪いからね。でも、それでもあきらめず探した、警察に行ったりいろいろやって!」
「手紙書いたのよ!」サラは激しい口調で言った。
「届いてない!」
「じゃあ、どうやってここに?」
若き農夫は春の笑みを浮かべた。
「夕方、隣のホーム・レストランに寄ったんだ」彼は言った。「どうでもいいことだけど、僕はこの時期の青野菜の料理が好きでね。きれいな、タイプされたメニューに目を通してそのてのものがなにかないか探したんだ。キャベツの下にきたところで椅子をひっくり返して大声で支配人を呼んだ。そしたら君の住んでるところを教えてくれたんだよ」
「覚えてるわ」サラは幸せそうにため息をついた。「タンポポだった、キャベツの下は」
「僕にはわかるんだよ。あの大文字の、ひん曲がって行の上にはみ出した「W」が、君のタイプライターで打たれたものだって。世界中どこにいてもね」フランクリンは言った。
「どうして、タンポポ(dandelion)にWはない」サラは言った、驚いていた。
若者はポケットからすっとメニューを取り出すと、ある一行を指差した。
サラにはそれが午後に最初にタイプしたメニューだとわかった。いまも花のようなかたちをした染みが右手上、涙のこぼれたところにあった。ところが、その牧草地の植物の名前があるべき箇所に、ふたりの黄金の花の、頭から離れない思い出が指におかしなキーを叩かせていた。
赤キャベツと肉詰めピーマンのあいだにはこんな品が載っていたのである。
「大切なウォルター、固ゆで卵添え」
[1] キリスト教の四旬節(しじゅんせつ)。復活祭四六日前の「灰の水曜日」から復活祭前日の「聖土曜日」までの、日曜を除く四十日間を指す。期間中は、食事の節制をする慣習がある。
[2] ジェームズ・ケテルタス・ハケット。ハンサムで『ロミオとジュリエット』でロミオを演じたりもして、アイドル的な人気もあった。
[3] シェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』に登場するピストルのこと。この台詞は英語圏で、”The world is your oyster”という慣用句として親しまれるようになった。世界を思いのままにするの意。
[4] 1902年にアメリカで発表され、この時代屈指のヒット曲となった、夏の素晴らしさを讃える歌。
[5] 「悲しみの悲しい冠」は、アルフレッド・テニスンの詩「ロックスリー・ホール」の一節。
[6]『僧院と家庭』は1861年に発表されたチャールズ・リードの小説。主人公がジェラルドとマーガレットである。